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カタリ~教師の味方①

2017年10月12日 | 読書
 内田樹は「カタリ」の名人だなと思う。カタリとは「語り」でありそして「騙り」である。騙りは良い意味では使われないが、氏にはダマされてもいいような気分にさせられる。誰かが「政治家にふさわしい人」と評したが、まさにそういう魅力がある。少なくとも「語り」が万全でなければ騙ることなどできない。



2017読了99
 『待場の教育論』(内田 樹  ミシマ社)


 昨春に8割の本を片付けた。依然として並ぶ背表紙で一番多いのは「ウチダ本」だ。教育論も数々あるが、なんとなく手に取ってみたくなり再読する。9年前の発刊、書かれてから約10年。おそらくこの本から汲み取ったことは自分の歩く杖になったはずだ。ただうまく使えたか自信はない。それを問うような気持ちだ。


 ちょっと驚いたのは装幀が「クラフト・エヴィング商會」だったこと。吉田篤弘の小説を読み始めているので、やはりどこか惹かれ合うのだろう。さて、著者が目指したことは「学校の先生たちが元気になるような本」。この本はベストセラーになったし、元気をもらった教師も少なくないはずだ。また、そう願っている。


 直接的に励ましてくれる多くの文章は、今読んでも小気味いい。

 私たちの国の教育に求められているのは「コスト削減」や「組織の硬直化」ではありません。現場の教員たちの教育的パフォーマンスを向上させ、オーバーアチーブを可能にすることです。それに必要なのは、現場の教師たちのために「つねに創意に開かれた、働きやすい環境」を整備することに尽くされる


 さらに、多くの教員たちが腹の中で思っても、なかなか発せられない言葉も代弁してくれているようだ。

 私が教師として現場にいた過去三十年間に限って言えば、文科省の行政指導の中に「教師に自信を与え、勇気づけ、自尊感情をもたらす」ことを目的として立案された政策は一つもありませんでした。


 この点について様々な原因や理由を指摘することは容易だ。しかし結局のところ「教育とは何か」「学びとは何か」という問いに向かう姿勢こそ根本で問われる。「『今ここにあるもの』とは違うものに繋がること」という教育の重要な機能を理解し、「『教えるものと学ぶもの』の出会い」に関していかに共感できるかだ。


 この二つに関して、政治家や行政に携わる者が、歴史上の「教師」「学校」という存在の意義を的確に把握しない限り、また現代社会が求める「ここ」に合わせようとする子どもをつくろうとする限り、噛み合わない現実は続いていく。例えば「キャリア教育」に代表される高波がもたらしている浸食は、かなり重症だ。

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