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「はだしのゲンわたしの遺書」中沢啓治
「はだしのゲン」で有名な中沢啓治さんの自伝。
内容は子供向きに平易な文章で書かれている。
「はだしのゲン」と内容が重なり、既に「はだしのゲン」を読んでいるなら、無理して読む必要はない。
ただし、「少年ジャンプ」連載の経緯、単行本が集英社でなく汐文社から出版された経緯。
そういったことに触れられているのが収穫。
そういったことに触れられているのが収穫。
2009年白内障により視力が衰えた為マンガ家引退。
この文章も、おそらく口述筆記と思われる。
2012年12月19日、肺がんにより逝去。
P207
常々、みんなは原発のおそろしさをわかっていない、放射能のおそろしさを知った広島、長崎の教訓が生かされていないと思っていましたが、今回、福島の事故で、日本中がやっと認識したのではないでしょうか。
また、福島の風評被害のニュースをきいて、ぼくは広島、長崎の被爆者差別を思い出しました。当時は放射能の知識がありませんでしたから、伝染病だといううわさが広がって、被爆者は避けられたのです。
ぼくの女房も、「よく被爆者と結婚しましたね」と言われたり、「伝染病だからうつるんじゃないですか」と言われたことがありました。
福島のことを考えると、いまもあのころと事態はあまり変わっていないように思います。
P170-176
ジャンプに「はだしのゲン」を連載する経緯
集英社に『負け犬』というボクシング漫画の原稿を持ち込みました。読んだ編集長が「なかなかいいですね」と言ってくれました。
それが『はだしのゲン』を世に生み出すきっかけを与えてくれた、初代『少年ジャンプ』編集長の、長野規(ながの・たすく)さんでした。(中略)
『少年ジャンプ』は、1968(昭和43年)に創刊されたばかりで、先発の『週刊少年マガジン』や『週刊少年サンデー』に大御所の漫画家をおさえられ、部数もまだ少ない雑誌でした。そんな環境と、長野編集長の存在によって、新人のぼくでも、発表の機会を得ることができたのです。(中略)
ある日、長野編集長から『別冊少年ジャンプ』で漫画家の自叙伝をシリーズでやりたいので、そのトップバッターでかけと言われました。ぼくは、それまで原爆ものはかいていましたが、自伝をかくことはまったく思いつきませんでした。
自分のことをかくなんて、恥ずかしいなと思いましたが、長野編集長が、「かき残してください。言いたいことはまだいっぱいあるでしょう。漫画でかけるのは、中沢さんしかいないんですよ」と言ってくれて、やる気になりました。
それでぼくは、原爆投下の日から漫画家になるまでの体験を、『おれは見た』というタイトルで45ページの読み切り漫画にしたのです。読んだ長野編集長が、「中沢さん、どうです。短い読み切りでは、言いたいことが表現しきれていないでしょう。これをもとにして長期の連載をやりませんか。好きなだけページをあげます」と言ってくれました。
それが『はだしのゲンの』誕生のきっかけでした。
P185-188
単行本が集英社でなく汐文社から出た経緯が書かれている。
漫画評論家の石子順さんが出版社を紹介して、その単行本化の経緯を記事にしたのが朝日新聞の横田喬(たかし)という平和問題担当の記者で、1975年(昭和50年)3月18日の朝日新聞夕刊社会面に大きな記事を写真つきで載せてくれた、と。
【ネット上の紹介】
爆で父、姉、弟、妹を亡くし、母とともにゼロから再出発した中沢少年が、母の死をきっかけに、戦争責任と原爆の問題に向き合った。実体験をもとに『はだしのゲン』を生み出した漫画家の、不屈の人生。
[目次]
第1章 母の死;
第2章 ピカドン;
第3章 残酷;
第4章 生きる;
第5章 出会い;
第6章 上京;
第7章 『はだしのゲン』誕生;
第8章 肺がん
この文章も、おそらく口述筆記と思われる。
2012年12月19日、肺がんにより逝去。
P207
常々、みんなは原発のおそろしさをわかっていない、放射能のおそろしさを知った広島、長崎の教訓が生かされていないと思っていましたが、今回、福島の事故で、日本中がやっと認識したのではないでしょうか。
また、福島の風評被害のニュースをきいて、ぼくは広島、長崎の被爆者差別を思い出しました。当時は放射能の知識がありませんでしたから、伝染病だといううわさが広がって、被爆者は避けられたのです。
ぼくの女房も、「よく被爆者と結婚しましたね」と言われたり、「伝染病だからうつるんじゃないですか」と言われたことがありました。
福島のことを考えると、いまもあのころと事態はあまり変わっていないように思います。
P170-176
ジャンプに「はだしのゲン」を連載する経緯
集英社に『負け犬』というボクシング漫画の原稿を持ち込みました。読んだ編集長が「なかなかいいですね」と言ってくれました。
それが『はだしのゲン』を世に生み出すきっかけを与えてくれた、初代『少年ジャンプ』編集長の、長野規(ながの・たすく)さんでした。(中略)
『少年ジャンプ』は、1968(昭和43年)に創刊されたばかりで、先発の『週刊少年マガジン』や『週刊少年サンデー』に大御所の漫画家をおさえられ、部数もまだ少ない雑誌でした。そんな環境と、長野編集長の存在によって、新人のぼくでも、発表の機会を得ることができたのです。(中略)
ある日、長野編集長から『別冊少年ジャンプ』で漫画家の自叙伝をシリーズでやりたいので、そのトップバッターでかけと言われました。ぼくは、それまで原爆ものはかいていましたが、自伝をかくことはまったく思いつきませんでした。
自分のことをかくなんて、恥ずかしいなと思いましたが、長野編集長が、「かき残してください。言いたいことはまだいっぱいあるでしょう。漫画でかけるのは、中沢さんしかいないんですよ」と言ってくれて、やる気になりました。
それでぼくは、原爆投下の日から漫画家になるまでの体験を、『おれは見た』というタイトルで45ページの読み切り漫画にしたのです。読んだ長野編集長が、「中沢さん、どうです。短い読み切りでは、言いたいことが表現しきれていないでしょう。これをもとにして長期の連載をやりませんか。好きなだけページをあげます」と言ってくれました。
それが『はだしのゲンの』誕生のきっかけでした。
P185-188
単行本が集英社でなく汐文社から出た経緯が書かれている。
漫画評論家の石子順さんが出版社を紹介して、その単行本化の経緯を記事にしたのが朝日新聞の横田喬(たかし)という平和問題担当の記者で、1975年(昭和50年)3月18日の朝日新聞夕刊社会面に大きな記事を写真つきで載せてくれた、と。
【ネット上の紹介】
爆で父、姉、弟、妹を亡くし、母とともにゼロから再出発した中沢少年が、母の死をきっかけに、戦争責任と原爆の問題に向き合った。実体験をもとに『はだしのゲン』を生み出した漫画家の、不屈の人生。
[目次]
第1章 母の死;
第2章 ピカドン;
第3章 残酷;
第4章 生きる;
第5章 出会い;
第6章 上京;
第7章 『はだしのゲン』誕生;
第8章 肺がん