「生きて帰ってきた男 ある日本兵の戦争と戦後」小熊英二
思った以上に良かった。
時代背景がデータと供に語られる。
(自分の父親に第三者・林英一氏を交えて聞き取りをした)
平易な文章で読みやすい。
シベリア抑留だけでなく、帰国してから、戦後をどう生きたのか。
軍人やインテリでなく、市井の人の昭和史、である。
当時の雰囲気も伝わってくる。
P24
謙二が小学4年だった1936年2月、2.26事件がおきた。しかし同年の出来事では、5月におきた「阿部定事件」のほうが印象に残っており、近所の子どもも、そちらを話題にしていた。「局所」という言葉が、子どもたちのあいだで、意味もわからないまま流行ったという。
戦中での物資の不足、「闇値」での買い出しについて
P36
「世の中は 星(陸軍)に碇(海軍)にコネに顔 馬鹿者のみが行列に立つ」
P182
「官僚や高級軍人は、戦争に負けても、講和条約のあとには恩給が出た。しかし庶民は、働けるときに蓄えた貯金も、すべて戦後のインフレでなくなった。ばかな戦争を始めて多くの人を死なせ、父や母をこんなひどい生活に追い込んだ連中は、責任をとるべきだと思った」
P270
1960年前後までは、個人宅は「資産家」でないと電話を持っておらず、一般人は直接の往来か、電報や速達を急用に利用していた。(今では一人で複数の携帯を持っていたりする・・・隔世の感がある)
P275
もともと日本における結婚は、両家が会合を開くだけで、宗教儀式はない。現在行われている神道式の「神前結婚式」は、1900年に当時の皇太子(のちの大正天皇)が結婚したさい、宗教儀式として「創出」されたものが起源である。高度成長で庶民の購買力が上昇すると、神道式やキリスト教式の儀式を提供する結婚式場が台頭し、謙二が行ったような公共施設での無宗教結婚式は姿を消していった。
文化大革命について
P290
「自分はソ連の収容所で民主運動を経験したから、ああいうふうに大勢でとり囲んで糾弾されるのがどういうことか、よくわかった。報道を見ていて、昔を思いだして気分が悪くなった」
P312
「(前略)「南京大虐殺はなかった」とかいう論調が出てきたときは、「まだこんなことをいっている人がいるのか」と思った。本でしか知識を得ていないから、ああいうことを書くのだろう。残虐行為をやった人は、戦場では獣になっていたが、戦後に帰ってきたら何も言わずに、胸に秘めて暮らしていたと思う」
P341
「戦友というと、何となく軍国主義的な感じだが、ヨーロッパの言葉でいう「カメラート」lは、仲間というくらいの意味だ。それに日本軍では「戦友」という言葉はほとんど使っていなかった。倒れた戦友を残して突撃して泣いたことを歌った「戦友」という歌が、めめしいということで、禁じられていたくらいだ」
読んで良かった、と感じられる作品だ。
【おまけ】
例によって誤植を見つけた。
P179
(誤)敗戦後の市部人口比率は1935年の水準に逆戻りしていた。
↓
(正)敗戦後の都市部人口比率は1935年の水準に逆戻りしていた。
【参考リンク】
岩波新書編集部 インフォメーション - 岩波書店
【ネット上の紹介】
とある一人のシベリア抑留者がたどった軌跡から、戦前・戦中・戦後の日本の生活面様がよみがえる。戦争とは、平和とは、高度成長とは、いったい何だったのか。戦争体験は人々をどのように変えたのか。著者が自らの父・謙二(一九二五‐)の人生を通して、「生きられた二〇世紀の歴史」を描き出す。
[目次]
第1章 入営まで
第2章 収容所へ
第3章 シベリア
第4章 民主運動
第5章 流転生活
第6章 結核療養所
第7章 高度成長
第8章 戦争の記憶
第9章 戦後補償裁判