MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

「Palaces Of Montezuma」 Grinderman 和訳

2019-10-11 00:57:52 | 洋楽歌詞和訳

Grinderman - Palaces Of Montezuma (RAK Sessions)

 グラインダーマンが日本においてどれほどの知名度があるのか分からないが、このバンドは

ニック・ケイヴ・アンド・ザ・バッド・シーズ(Nick Cave and the Bad Seeds)の派生

バンドといった感じで、この曲は『刑事ルーサー』というテレビドラマで流れていた。

以下、和訳。

「Palaces Of Montezuma」Grinderman 日本語訳

駅で僕は君に
マタ・ハリのサイケデリックな祈りをささげる
ヒンドゥーを出自とするジャワ島の王女をささげる
生身の女性と大地の子供をささげる
バビロンの吊り庭と
マイルス・デイヴィスと黒い一角獣をささげる
モンテスマ2世の宮殿と
インドのムガール帝国第三代皇帝のアクバルの墓の庭をささげる
蜘蛛の女神と苛立った少年をささげる
奴らが雇っている小さな奴隷たちをささげる
アリ・マグロ―とスティーブ・マックイーンのカスタード色をした壮大な夢を
僕は君にささげるよ

この寒さから抜け出そう
僕が抱きしめられる君の貴重な愛をくれよ

僕は君に
ギルガメシュ叙事詩と
下方がゆるやかに広がった可愛い小さなドレスをささげる
マリリン・モンローのネグリジェに包まれた
ジョン・F・ケネディの脊髄をささげる
見返りなど求めていないんだ
ただ最上に柔らかいかたずを飲むささやかな言葉が欲しいんだ
歩くこともままならず立ってさえいられない
砂粒の中に入る言葉が欲しいんだ

この寒さから抜け出そう
僕が抱きしめられる君の貴重な愛をくれよ
この寒さから抜け出そう
僕が抱きしめられる君の貴重な愛をくれよ
僕は君にささげるのだから


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表現の不自由と無知について

2019-10-10 00:15:25 | 美術

(2019年9月18日付毎日新聞朝刊)
 
  今回の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の展示の一つである企画展「表現の不自由展・その後」が抗議電話やメールなどで中止に追い込まれた原因は、芸術祭芸術監督である津田大介の認識の甘さにあったと思う。ジャーナリストとして知名度を持つ津田はこれまで嫌がらせを受けたことがなかったのかと思うほど、無防備だったことに驚かされた。
 「表現の不自由展・その後」が再開されることを受けて津田は10月9日のTBSの朝の情報番組である『グッとラック!』に出演していたのであるが、MCで落語家の立川志らくの発言には呆れてしまった。
 どうも志らくは昭和天皇の写真を踏みにじったり燃やしたりした作品が気にいらなかったようで、津田に「お子さんじゃなくても自分の親、子供にいろんな理由をつけてそれも表現だといって自分の親の写真を焼いたり踏んだりそれも芸術だと言ったらどうしますか?」と問いかけていたのだが、例えば、津田の親の写真を焼いたり踏んだりしたらそれはもちろん津田に対する「ヘイト」であり、日本人の言動を左右する天皇陛下の「イコン」を扱うのとはわけが違うのだから、一般の親や子供と天皇陛下を同じ俎上に載せるのは乱暴すぎる。実際、志らくは『グッとラック!』の初回の9月30日の放送回で文化庁が補助金の交付をしないことを発表したことに対し、「政治家たちの芸術に対する認識の低さが招いた悲劇」と文化庁側を批判し、「不愉快なものを含めて、それが芸術」としていたのではなかったか。
 美術館という場所の意義は印象派の出現あたりから変わってきたのであるが、決定的な出来事はマルセル・デュシャンが1917年に「ニューヨーク・アンデパンダン展」において『噴水(Fountain)』と称して「リチャード・マット (R. Mutt)」という署名をした男子用小便器を展示したことである。つまり美術館は「これが芸術だ」という観点から「これは芸術なの?」という観点で作品が展示されるようになったのであり、「これは芸術なの?」という問いに堪えられた作品はその後も展示され続け、堪えられなかった作品は必然的に消えていくのである。
 美術館はとりあえず本来の場所や文脈から「作品」を取り出して、判断を中止(エポケー)して観賞する試みの場所に他ならないはずなのだが、いくら落語家といえども立川志らくは芸術に関して感情的で無知過ぎると思う。「そんなことも知らないのか、バカだな~」と言いたい衝動を抑えて丁寧に説明していた津田はこれでプラスマイナスゼロになった。
 
 

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マリアノ・フォルチュニの才能について

2019-10-09 00:53:02 | 美術

 六本木の国立新美術館で催されていた『ウィーン・モダン』と東京の丸の内の三菱一号館

美術館で催されていた『ラファエル前派の軌跡展』を踏まえて、フランスの「印象派」、

イギリスの「ラファエル前派」、ウィーンの「ウィーン分離派」という同時代的に起こった

芸術運動の違いを論じたことがある。フランスの印象派がさらに「新印象派」「ポスト印象派」

「フォービズム」「キュビズム」とテクニックを追求していくのに対して、「ラファエル前派」や

「ウィーン分離派」は「象徴主義」を経た後に「アール・ヌーヴォー」に流れてしまっており、

ここで言う「アール・ヌーヴォー」とは美術自体の向上ではなくてその装飾性が建築や工芸品や

グラフィックデザインに向かったということで、つまり実用品として扱われるようになったと

指摘したのであるが、三菱一号館美術館で催されていた『マリアノ・フォルチュニ 織りなす

デザイン展』を観た時、1871年生まれ、1949年に77歳で亡くなったスペインの

ファッションデザイナーも「アール・ヌーヴォー」に流れてしまっているように見える。

逆に言うならば、もしもマリアノ・フォルチュニ(Mariano Fortuny)が独特の油絵を

描けたならばフォルチュニは印象派に名を連ねていたように思うのであるが、「20世紀の

レオナルド・ダ・ヴィンチ」と呼ばれることはなかっただろうから微妙な話ではある。


(『アンリエット・フォルチュニ、画家の妻
(Portrait of Henriette Fortuny, Wife of the Artist)』)(1915年)


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『フォリー・ベルジェールのバー』の謎

2019-10-08 00:56:47 | 美術

 現在、上野の東京都美術館で催されている「コート―ルド美術館展 魅惑の印象派」では

比較的良質の印象派作品を観ることができるが、何と言ってもエドゥアール・マネ(Édouard Manet)

の『フォリー・ベルジェールのバー(Un bar aux Folies Bergère)』は必見である。

 本作の有名な謎が、バーテンダーの女性が一人で佇んでいるにも関わらず、背後の鏡には

その女性に話しかけている客の男性が映っていることである。興味深い点として女性の顔と

同じくらいの大きさの男性の顔が何故か女性の顔のようにクリアに描かれていないことで、

女性の虚ろな目つきを勘案するならば、背後の鏡に写っているシーンは、直前に女性が男性と

言葉を交わした経験のイメージで、女性はそのことで憂鬱になっているような気がする。

要するにマネは女性の「記憶」を描いたのだと思うのである。

 本作はマネの晩年の傑作とされているが、正確に言うならばマネは51歳で亡くなって

いるのだから、マネの「全盛期」の作品といえるであろう。


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スポーツの「対処」の仕方について

2019-10-07 00:56:52 | Weblog


(2019年10月5日付毎日新聞朝刊)

 ドーハで行なわれている陸上世界選手権のハリファ国際競技場は4万人も収容できるのに空席が目立つという記事の中で、市内で暮らすエンジニアの男性が「好きなスポーツはサッカー。(自国開催の)22年のサッカー・ワールドカップは楽しみだが、陸上には関心がない」と答えているのだが、ある意味「健全」だと思う。
 逆にいつからそんなに日本人はスポーツが好きになったのかと思うぐらいなのだが、新聞もテレビも日本では騒ぎすぎなのである。もちろんラグビーの国際大会やオリンピックで稼ごうと企むマスコミの気持ちは分からないこともないが、個人的にはマスコミの煽りがあざとすぎて逆に冷めてしまっている。わざわざ応援しに行っているのに、トラック種目のスタート前は、選手がピストル音に集中できるように静かにすることがマナーだとか言われると、「頑固オヤジのラーメン店か!」とツッコみたくなる(この例えは正しいのか?)。


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「ばかじゃないの」の主語について

2019-10-06 00:57:31 | Weblog

(2019年10月5日付毎日新聞朝刊)
 
 かんぽ生命保険の不正販売問題を昨年4月に報じたNHKの「クローズアップ現代+」をめぐり、NHKが日本郵政グループの抗議を受けた問題で、鈴木康雄・日本郵政上級副社長(元総務事務次官)は3日、国会内での野党合同ヒアリング後、記者団に対し、NHK側から「取材を受けてくれるなら(情報提供を呼び掛ける)動画を消す」と言われたと説明し、「そんなことを言っているやつの話を聞けるか。それじゃ暴力団と一緒でしょ。殴っておいて、これ以上殴ってほしくないならもうやめてやる、俺の言うことを聞けって。ばかじゃないの」と不満を述べたらしい。
 この鈴木の物言いこそ「暴力団と一緒」と言ってしまうと話が終わってしまうのでここは見逃そうと思うが、個人的にはこの鈴木の例え話が正確なのかどうかということである。
 NHK側が言ったとされるロジックは、動画によって情報提供を求めていたのだが、それはあくまでの第三者からの情報でしかないので、当事者である鈴木が取材に応じるならば動画の意味がなくなるから消すというのは理解できる話である。
 さて、このロジックを鈴木は「殴っておいて、これ以上殴ってほしくないならもうやめてやる、俺の言うことを聞けって。」と例えている。「殴る」というのはNHKが「クローズアップ現代+」でかんぽ生命保険の不正販売問題を暴いたことを指しているのであろう。気持ちは分からなくはないとしよう。「これ以上殴ってほしくないならもうやめてやる」という文言を文脈の流れから勘案するならば、「さらに暴露されたくないならば」という話になるはずだが、NHKがそのような話を持ち掛ける訳がない。「俺」とはNHKを指し、「NHKの言うことを聞く」ということは「取材を受ける」という意味になり、そうなると取材を受ければ暴露はしないという話になるのだが、取材をしておいて暴露をしないということもないであろう。
 鈴木の意図を酌み取ろうと思ったのだが、よく分からない。誰か分かる人がいないのならば「ばかじゃないの」の主語は必然的に変わらざるを得ない。

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『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』

2019-10-05 01:24:37 | goo映画レビュー

原題:『Once Upon a Time in Hollywood』
監督:クエンティン・タランティーノ
脚本:クエンティン・タランティーノ
撮影:ロバート・リチャードソン
出演:レオナルド・ディカプリオ/ブラッド・ピット/マーゴット・ロビー/エミール・ハーシュ
2019年/アメリカ・イギリス

映画が現実を作っていた頃について

 前作『ヘイトフル・エイト』(2015年)や前々作『ジャンゴ 繋がれざる者』(2012年)のような緊張感が画面に漲ることはなく、まるで主人公のリック・ダルトンのドキュメンタリー映画のような撮り方であるにもかかわらず、決して退屈させることがないのはやはり脚本が上手いということなのかもしれない。
 てっきりシャロン・テート殺害事件が描かれているものだと思っていた。テートが自身が出演する最新作『サイレンサー第4弾/破壊部隊』(ヘンリー・レヴィン監督 1968年)を観に行く途中で、『ジョアンナ』(マイケル・サーン監督 1968年)や『ペンダラム』(ジョージ・シェーファー監督 1968年)のタイトルが目に入るからなのだが、実際は「偽史」が描かれることになるのは、ダルトンというよりもタランティーノ自身が夢見た「ハリウッドのおとぎ話」を描きたかったからであろう。
 ラストを少し説明しておくならば、ダルトンは結局、俳優としての起死回生は叶わず、いやいやながら「昔の名前」でテレビCMをこなしている有様なのだが、ダルトンとダルトンの専属のスタントマンだったクリフ・ブースの友情が変わらないと思える理由は、エンドクレジットと共に流れる音声がバットマンと相棒のロビンが仲良く「バットフォーン」のCMをしているからである。

KHJ Boss Radio - Batphone Secret Number Contest


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『アス』

2019-10-04 00:56:46 | goo映画レビュー

原題:『Us』
監督:ジョーダン・ピール
脚本:ジョーダン・ピール
撮影:マイケル・ジオラキス
出演:ルピタ・ニョンゴ/ウィンストン・デューク/エリザベス・モス/ティム・ハイデッカー
2019年/アメリカ

シャツに書かれた「メッセージ」について

 1986年5月にアメリカではチャリティーイベントとして「ハンズ・アクロス・アメリカ(Hands Across America)」が催されており、主人公のアデレードは家族とサンタクルーズを訪れていたのであるが、そこで「自身を見つけろ(Find Yourself)」と書かれた「びっくりハウス(Funhouse)」に迷い込み、本当に自分自身を見つけてしまい、PTSDを患って失語症になってしまう。
 それから現在の話になりアデレードはガブリエル・ウィルソンと結婚しており、娘のゾーラと息子のジェイソンと暮している。そこで自分たちとそっくりな人物たちに襲われることになるのだが、話はホラー映画というよりもSF映画のような規模を呈する。
 これ以上はネタバレになるので詳細は避けるとしても、前作『ゲット・アウト』(2017年)におけるラストシーンの描写の迷いは本作には感じられず、完璧に決まっている。因みに各々のTシャツの絵柄を確認しておくと、若いアデレードが着ていたシャツには「マイケル・ジャクソンのスリラー(Michael Jackson's Thriller)」、現在のジェイソンが着ているシャツには「ジョーズ(Jaws)」が描かれ、ガブリエルの「ハワード(Howard)」は時代背景から察すると『ハワード・ザ・ダック/暗黒魔王の陰謀』(ウィラード・ハイク監督 1986年)の「ダック(カモ)」で、ゾーラが着ているシャツには「Thỏ」と書かれており、これはベトナム語で「うさぎ」を意味するのだが、「スリラー」ではなくて「マイケル・ジャクソン」を重視すれば分かる人にはオチは分かってしまう。
 エンドクレジットで流れたミニー・リパートンの「レ・フルール(花束)」を和訳しておく。

「Les Fleurs」 Minnie Riperton 日本語訳

誰が私をお祭りに連れて行ってくれるの?
ある女性が私を彼女の髪に刺し通すのかしら?
ある子供が私を小川のそばで見つけるのかしら?
私の花びらにキスをして私を夢に織り込むのね

そんな簡単な物事だけで花はさらに咲き誇り
絶望している人々に
愛や喜びや信頼や希望を広めるために開花する
誰の心の中にも花の種は生きている
もしもそこを覗くならば彼は美と力を見つけるのよ

全てのベルを鳴らしながら歌って
あらゆる場所に花は咲くと人々に言うのよ
暗闇をなくすために
あなたは嬉しさの祈願で空を照らし喜ぶのよ
あなたは恐怖をかなぐり捨てて
来るべき新しい時代の兆しに合わせて
鼓動を自由に打ち鳴らすのよ

メイブル・サディが私にあなたのバラを全部くれた
私の名前を言って欲しい
私を探しながらそよ風を浴びて欲しい
メイブル・サディが私にあなたのバラを全部くれた

そんな全ての罪のためだけで花はさらに咲き誇り
絶望している人々に
愛や喜びや信頼や希望を広めるために開花する
誰の心の中にも花の種は生きている
もしもそこを覗くならば彼は美と力を見つけるのよ

全てのベルを鳴らしながら歌って
あらゆる場所に花は咲くと人々に言うのよ
暗闇をなくすために
あなたは嬉しさの祈願で空を照らし喜ぶのよ
あなたは恐怖をかなぐり捨てて
来るべき新しい時代の兆しに合わせて
鼓動を自由に打ち鳴らすのよ

Minnie Riperton - Les Fleurs


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『やっぱり契約破棄していいですか!? 』

2019-10-03 00:45:16 | goo映画レビュー

原題:『Dead in a Week (Or Your Money Back)
監督:トム・エドモンズ
脚本:トム・エドモンズ
撮影:リューク・ブライアント
出演:トム・ウィルキンソン/アナイリン・バーナード/フレイヤ・メーバー/マリオン・ベイリー
2018年/イギリス

死を通して見る生き様について

 小説を書くもなかなか売れないことから絶望して橋から海に飛び込んで自殺しようと試みている主人公のウィリアムに声をかけてきたのは英国暗殺者組合のベテラン会員のレスリーだったのだが、だからといってレスリーとてすっかり腕が落ちてしまい今月のノルマをクリアできるかどうかギリギリのところで葛藤している。
 自殺を何度も試みたが死ねずにいたウィリアムはお金を払って一週間内にレスリーに殺してもらう契約を交わすのだが、そんな時に限ってウィリアムが書いた小説を気に入った編集者のエリーと出会ってしまい、自身の暗殺計画を破棄してもらおうとするのだが、レスリーにとってはこの契約は暗殺者の仕事を続けられるかどうかがかかっており、簡単に止めるわけにはいかないのである。
 そこに英国暗殺者組合の若手会員のアイヴァンが老いぼれたレスリー暗殺に関わってきて、話がややこしくなり、アイヴァンを犠牲にすることでウィリアムとレスリーの利害が一致したのだが、納得しないのが英国暗殺者組合の組合長であるハーヴェイである。
 本作の面白さというのは契約を巡るドタバタ劇というよりも、老いたレスリーがなりふり構わず生きることに固執することに対して、若いウィリアムが黒人の子供を交通事故から救う代わりに亡くなることに恍惚を感じている皮肉にあると思う。


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『ガーンジー島の読書会の秘密』

2019-10-02 00:56:42 | goo映画レビュー

原題:『The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society』
監督:マイク・ニューウェル
脚本:ケヴィン・フッド/ドン・ルース/トーマス・ベズーチャ
撮影:ザック・ニコルソン
出演:リリー・ジェームズ/マイケル・ユイスマン/グレン・パウエル/ジェシカ・ブラウン・フィンドレイ
2018年/イギリス・フランス

イギリス人の「アレルギー」について

 1946年、主人公で作家のジュリエット・アシュトンはエッセイのネタを求めて、「ガーンジー島の文学とポテトの皮製のパイ同好会」と名乗るグループの取材のために船でガーンジー島に渡ったのだが、何故か創設者のエリザベス・マッケンナは国外にいるために会うことができず、同好会のことを記事に書くというとメンバーたちに拒絶されるのである。
 実はエリザベスは第二次世界大戦中の1941年、ガーンジー島がドイツ軍に占領されていた時に、仕事先で知り合ったドイツ人の医師のクリスティアン・ヘルマンの子どもを宿し、それがドーシー・アダムズが育てているキットという娘なのであるが、その後、行方知れずだったエリザベスはラーフェンスブリュック強制収容所に送られ、そこで子供を守ろうとした際に殺された事実が分かるのである。
 取材を終えたジュリエットが一度はプロポーズされたマーク・レイノルズの申し出を断り、再びガーンジー島へ渡りドーシーと結婚することになった理由は、エリザベスに関する話と無関係ではないだろう。エリザベスが異国人の男性と交際することに失敗したことを知り、ジュリエットはアメリカ人のマークとの交際に躊躇したのである。ここにそれぞれの時代の「強国」(今ならEU?)に対するイギリス人の「アレルギー」が暗示されているのかもしれない。


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