奈良検定テキスト(『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』山と渓谷社刊)に対する不満の声は多いが、その1つが「古墳に偏重している」というものだ。
ご存じ「長屋王の変」(729年)は、高校の日本史教科書にも登場する有名な事件だ。不比等亡き後の藤原氏への対抗勢力となった長屋王(天武天皇の孫)が、「左道(陰陽道の呪術)を使い国家を傾けようと謀っている」との密告により、聖武天皇の命で邸を藤原宇合率いる兵に囲まれ、妻子とともに自殺に追いやられた、という事件である。
長屋王が、光明子(不比等の娘)を皇后とすることに反対したことなどから、藤原氏が嘘の密告をしたとされ、この変の半年後には光明皇后が実現した。皇族以外から皇后が選ばれるという異例の事態が出現したわけで、藤原武智麻呂以下の藤原四子も、ともに昇進して天平初期の政界を主導することとなった。つまり、この変を境に皇族から藤原氏へと権力の主導権が移るという大事件だったのだ。
長屋王の変について、私がここに書くだけでも8行費やしているが、テキストではわずか5行で済まされている。ところが「長屋王墓(ながやおうのはか)」に関する記述は30行、写真(14行分)を入れると3分の2ページも割かれている。歴史あってのお墓だと思うが…。
と、また前置きが長くなってしまったが、その長屋王墓を訪ねてみた。近鉄生駒線・平群(へぐり)駅から北へ300mのところにこの墓がある。「天武天皇皇孫 長屋王御墓」という立派な石碑が建っている。墓の横には「長屋王御陵公園」という小さな公園があって、長屋王の変や周辺の古墳を説明する看板も出ている(ただし『続日本紀』には、生駒山に葬られたと書かれている)。奈良検定のテキストとよく似たアングルで撮ったのが、トップ写真である。
ここから180m隔てた小高い丘の上には、后の吉備内親王(きびないしんのう)の墓がある。
※吉備内親王墓
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/44/b0480c33991d2f80bb956e757a7fe050.jpg
今、この周辺は鉄道や道路が整備され、瀟洒な家が建ち並ぶベッドタウンだが、当時は生駒山麓の寂しい場所だったのだろう。
ここから東に進んだところには、三里(みさと)古墳がある。墳丘は破壊されているが、玄室(遺骸を収める部屋)の奥に石棚がある(外からも見える)。同様の構造は紀ノ川流域に多く、ここの被葬者と紀ノ川流域の豪族・紀氏との関係が指摘されている。
※三里古墳
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/0f/9a4823d6510087ca2b8dfa31173aa982.jpg
と、現地見学を終えて家に帰り、この記事を書こうと奈良検定テキスト(「長屋王墓」P106)を読み直していると、妙な記述に気がついた。《近年の周辺の発掘調査により、現在の長屋王墓と後円部が同心円に重なる位置に前方後円墳が確認された》。その古墳は梨本南2号墳と呼ばれ《築造時期は、出土遺物から6世紀前半》だという。
そして《梨本南2号墳の時期は長屋王の死亡年代と大きく異なっており、「長屋王墓」の円丘と梨本南2号墳の関係もこれまでの調査では明らかとなっていない》。ガーン!。つまり簡単にいえば、トップ写真の墓は6世紀前半の古墳であって、729年に自害した長屋王の墓では「ないだろう」と書いてあるのだ。宮内庁が管理している皇孫の墓だがら、遠慮して遠回しに記述しているのだろう。
やれやれ、それがきちんと書かれていれば、わざわざ平群谷にまで足を運ぶこともなかったのだ。3分の2ページも費やして、「明らかとなっていない」墓を写真付きで紹介するとは、このテキストの編集方針は、いまだに「明らかとなっていない」。
ご存じ「長屋王の変」(729年)は、高校の日本史教科書にも登場する有名な事件だ。不比等亡き後の藤原氏への対抗勢力となった長屋王(天武天皇の孫)が、「左道(陰陽道の呪術)を使い国家を傾けようと謀っている」との密告により、聖武天皇の命で邸を藤原宇合率いる兵に囲まれ、妻子とともに自殺に追いやられた、という事件である。
長屋王が、光明子(不比等の娘)を皇后とすることに反対したことなどから、藤原氏が嘘の密告をしたとされ、この変の半年後には光明皇后が実現した。皇族以外から皇后が選ばれるという異例の事態が出現したわけで、藤原武智麻呂以下の藤原四子も、ともに昇進して天平初期の政界を主導することとなった。つまり、この変を境に皇族から藤原氏へと権力の主導権が移るという大事件だったのだ。
長屋王の変について、私がここに書くだけでも8行費やしているが、テキストではわずか5行で済まされている。ところが「長屋王墓(ながやおうのはか)」に関する記述は30行、写真(14行分)を入れると3分の2ページも割かれている。歴史あってのお墓だと思うが…。
と、また前置きが長くなってしまったが、その長屋王墓を訪ねてみた。近鉄生駒線・平群(へぐり)駅から北へ300mのところにこの墓がある。「天武天皇皇孫 長屋王御墓」という立派な石碑が建っている。墓の横には「長屋王御陵公園」という小さな公園があって、長屋王の変や周辺の古墳を説明する看板も出ている(ただし『続日本紀』には、生駒山に葬られたと書かれている)。奈良検定のテキストとよく似たアングルで撮ったのが、トップ写真である。
ここから180m隔てた小高い丘の上には、后の吉備内親王(きびないしんのう)の墓がある。
※吉備内親王墓
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/44/b0480c33991d2f80bb956e757a7fe050.jpg
今、この周辺は鉄道や道路が整備され、瀟洒な家が建ち並ぶベッドタウンだが、当時は生駒山麓の寂しい場所だったのだろう。
ここから東に進んだところには、三里(みさと)古墳がある。墳丘は破壊されているが、玄室(遺骸を収める部屋)の奥に石棚がある(外からも見える)。同様の構造は紀ノ川流域に多く、ここの被葬者と紀ノ川流域の豪族・紀氏との関係が指摘されている。
※三里古墳
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/0f/9a4823d6510087ca2b8dfa31173aa982.jpg
と、現地見学を終えて家に帰り、この記事を書こうと奈良検定テキスト(「長屋王墓」P106)を読み直していると、妙な記述に気がついた。《近年の周辺の発掘調査により、現在の長屋王墓と後円部が同心円に重なる位置に前方後円墳が確認された》。その古墳は梨本南2号墳と呼ばれ《築造時期は、出土遺物から6世紀前半》だという。
そして《梨本南2号墳の時期は長屋王の死亡年代と大きく異なっており、「長屋王墓」の円丘と梨本南2号墳の関係もこれまでの調査では明らかとなっていない》。ガーン!。つまり簡単にいえば、トップ写真の墓は6世紀前半の古墳であって、729年に自害した長屋王の墓では「ないだろう」と書いてあるのだ。宮内庁が管理している皇孫の墓だがら、遠慮して遠回しに記述しているのだろう。
やれやれ、それがきちんと書かれていれば、わざわざ平群谷にまで足を運ぶこともなかったのだ。3分の2ページも費やして、「明らかとなっていない」墓を写真付きで紹介するとは、このテキストの編集方針は、いまだに「明らかとなっていない」。