tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

祭りが消える!

2010年03月14日 | 観光にまつわるエトセトラ
日本人の心の原点をたどる! 奈良の祭事記 (青春新書INTELLIGENCE)
岩井 宏實
青春出版社

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3/1付の読売新聞奈良版に、こんな記事が載った。見出しは《「天誅踊り」存続ピンチ 尊皇攘夷 急進派しのび100年 高齢、過疎化 後継者不足に》。

《五條市の旧大塔村天辻地区で、明治維新の先駆けといわれる天誅(てんちゅう)組の遺徳を偲(しの)び、100年以上にわたって続く「天誅踊り」が存続の危機に立たされている。高齢化や過疎化が進んで後継者不足となり、最盛期に約40人いた舞踊経験者は4人になった。住民たちは「このままでは、伝統ある踊りが途絶えてしまう」と懸念している》。

《尊皇攘夷の急進派集団だった天誅組は、1863年に大和五條(現五條市)で皇軍の先陣として決起。五條代官所を襲撃して気勢を上げたが、政変によって幕府軍に追われ、鷲家口(現東吉野村)で壊滅した。市内には天誅組ゆかりの戦跡が残り、天辻地区では、本陣跡が地域のシンボルにもなっている。本陣跡では、毎年夏に盆踊りの恒例行事として、天下国家のために散った若き志士たちを弔う天誅踊りが披露されてきた》。



《紋付きはかまで刀を手にした「男踊り」と、扇子を持った着物姿の「女踊り」があり、二重の輪になって「四海太平治る御代に外に不思議はサテ……」と歌に合わせて踊る。50年前には40人近い踊り手が集い、大阪市など県外の催しにも参加。保存会もできたが、後継者問題が深刻化した10年程前に自然解散した》。

《戦後間もない頃、約150人いた地区住民は現在、約20人に減少。女性4人(65~76歳)の踊り手に加え、歌い手の1人も高齢のため、継承自体が年々難しくなっている。結婚後、地区で暮らす踊り手の一人、打集(うちあつめ)スミコさん(76)は「天誅組の義挙にならった勇壮な踊りで、このまま途切れてしまうのは寂しい」と話している》。

日本の祭り 知れば知るほど
菅田 正昭
実業之日本社

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旧大塔村(現五條市大塔町)といえば、奈良検定でおなじみの「篠原踊(しのはらおどり)」「惣谷狂言(そうたにきょうげん)」「阪本踊(さかもとおどり)」などが知られている。五條市のHP(大塔町の芸能文化)によると
http://www.city.gojo.lg.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1168491592668&SiteID=0000000000000

《大塔町は、古来より交通不便な僻遠の地として独特の文化を伝承してきた山村地域であることから、文化的には各郷、各集落といった小規模な区域ごとに、特徴のある風習や文化を伝えてきています》。

しかし《明治以降、住民が外部の新しい文化に接する機会が増えるにつれて、次第に娯楽的役割が薄れるようになり、近年はいずれの民俗芸能も後継者の減少と高齢化が悩みとなっています。村出身者への呼びかけや次世代への伝承などで保存対策を講じていかなくては、将来への継承が困難な状況となってきました》。

天誅踊りについても《天辻地区では天辻峠に天誅組の本陣が置かれ熾烈な戦いが繰り広げられたことから、この事件後間も無く、彼らの戦いを表現した「天誅踊」という踊りが踊られるようになりました。近年は過疎による踊り手の減少が継承を困難にしつつあります》。

民俗文化財―保護行政の現場から
植木 行宣
岩田書院

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同町中峯の人形芝居も、消えてしまった。《中峯では寛政の頃から盛んに人形芝居が行なわれるようになったといい、人形芝居を演じる舞台は民家の中に設けられていました。明治の末頃までは毎年お盆や正月に演じられ、周辺の村々からも多くの見物客が集まったと言われますが、大正になって人形遣いの伝承者は途絶えてしまったのだそうです》。

大塔町だけでも、こんな状況である。奈良県下の市町村を詳しく調べれば、このような例は枚挙にいとまがないことだろう。踊りは継承されても音曲が受け継がれず、古いテープを流している例も聞いたことがある。東吉野村の小川祭りでは、重い太鼓台を担ぐため、村を去った人々が祭りの日だけ全国から帰郷してくるそうだ。

踊りや祭りは、単なるイベントではない。その地の生活文化遺産である。奈良で「文化財の保護」というと、神社仏閣などの有形文化財に目が行きがちだが、民俗行事も立派な無形民俗文化財なのである。

奈良大和路の年中行事
田中 眞人
淡交社

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田中眞人氏は《村の祭りが消えていく。少子化や人員の不足、費用の削減などで祭りの形式が徐々に変化している。祭りの現状を早期に記録しなければと思い立ち、平成14年秋には早期定年退職を敢行、サラリーマン生活にピリオドをうって取材に専念した。既に廃止された祭礼も多々あり、もっと早く行っておけばよかったと悔やまれる》と『奈良大和路の年中行事』の「あとがき」に書いておられる(田中氏が取材された民俗行事は約700で、その4分の1ほどが同書で紹介されている)。

県下では、有形文化財ばかりに気を取られ、民俗文化財の保護は盲点になっているのではないだろうか。担当は各市町村の教育委員会だろうし、県だと文化財保存課の管轄になろうが、消えゆく祭りの保護に向けた動きは見えてこない。それどころか、どんどん祭りが消えたり、形式が変化しているのが現状なのである。

これは深刻な状況だ。これからも、この問題をフォローしなければ…。読者の皆さんの周辺でも同様の事例をご存じであれば、ぜひご教示いただきたい。
コメント (2)
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