tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

駆ける魂 騎手・藤井勘一郎さん(御所市出身)

2013年07月29日 | 奈良にこだわる
勘一郎さんが優勝したコリアンダービー(5/19)


藤井勘一郎さん(29歳)は、韓国で活躍する競馬騎手である。奈良県御所市柏原のご出身で、ウチの会社のOB・藤井謙昌さん(現在は榎本医院に勤務)のご長男である。先日、藤井先輩から、こんなメールをいただいた。《23日より3日間、日経新聞夕刊をご覧ください。長男は韓国で騎乗を続けています。その後5月には韓国ダービー(GⅠ)にも勝利しました。その効果もあり先日「日経新聞」の取材を受け、来週その記事が掲載されることになりました》。

これには驚いた。海外では「Joe Fujii」と呼ばれ、以前から活躍されている様子はお聞きしており、当ブログでも、大海を知る県出身ジョッキーとして紹介したことがある。雑誌『競馬最強の法則』2013年3月号でも「日本で1度も騎乗したことのない実力派日本人ジョッキー」として、5ページにわたって紹介されていた。昨年12月と今年の5月には、日本の「有馬記念」と「日本ダービー」に相当する試合で優勝していたのだ。日経夕刊「駆ける魂」の連載は、くまなく読ませていただいた。以下、記事から抜粋して紹介する。
※当記事中の写真は、勘一郎さんのブログ、Facebookとホームページから拝借

コリアンダービー(5/19)ゴールの瞬間

韓国で頭角、大レース連覇(7/22付)
日本で騎手を目指す少年少女は、10代半ばで人生の分岐点を迎える。国内には日本中央競馬会(JRA)の競馬学校騎手課程と、地方競馬全国協会(NAR)の地方競馬教養センターという2つの騎手養成機関があるが、いずれも年間合格者数人の狭き門。入学者の多くは中学卒で、試験に落ちれば、再挑戦か進路変更かの選択を迫られる。

再挑戦を目指す人の受け皿がある。オーストラリアの騎手学校に進み、免許を取る道だ。1990年代後半以後、この経路で30人以上がデビューを果たした。国内との接点が少なく、大半は競馬関係者でさえ名前も知らないが、韓国で大レースを相次いで優勝し、存在をアピールしたのが、藤井勘一郎(29)である。



昨年6月から韓国東南部の釜山慶南競馬場で騎乗を始めた藤井は、12月9日に「グランプリ」(ソウル競馬場・ダート2300メートル)を、今年5月19日には「コリアンダービー」(同・ダート1800メートル)を優勝した。日本なら有馬記念とダービーに相当するビッグタイトルを、わずか半年余りで連勝したことになる。



本来はJRA競馬学校騎手課程志望だった。だが、中学3年の時点で体重が44キロに増え、同課程の受験資格を1キロオーバーした。思いを捨てきれず、中学卒業直後の99年5月には、競馬雑誌の広告で知った豪州の競馬学校の門をたたいた。2年後に免許を取得し、豪州とシンガポールで活動。韓国は3ヵ国目だが、藤井の視線の先には、日本の競馬場がある。


コリアンダービー(5/19)で

勘一郎さんが優勝された「コリアンダービー」(5/19)のことは、ご本人のブログ記事2013年度韓国ダービー制覇に活写されている。

《ダービー当日は熱気あるファンでスタンドが埋め尽くされていました。前夜から雨が降り続け、当日は不良馬場。僕のパートナー、スピーディーファースト号は13枠からのスタート。この競馬場は雨が降ると、時計が早くなり、先行有利の競馬になってしまいます。当日も、すべてのレースで5番手以内のポジションで勝ち馬が決まっていました。外枠から初めの1,2コーナーでロスなくどう乗りこなすかが僕の課題でした。調教師さんとの作戦で「初めは無理させないで、後は任せる」とだけ言ってもらい、気持ちが楽になり、集中してレースに望めました》。

《ゲートが開いてゆっくり乗ったのが上手くいき、妨害も受けずに1,2コーナーをスムーズに周れ、向こう上面では理想の先頭グループまで馬なりでつける事ができました。3,4コーナーの途中で馬がハミ(口に含ませる馬具)を外し、集中力が切れたので手綱を動かしながら、牝馬の力だとここまでか?と不安になりました。でも、直線に向き、内の経済コースが開くと、またハミを取り直し反応してくれたのでラストは自信を持って追いました。韓国のファンは本当に熱狂的!!ウイニングランも馬との人馬一体で心から満喫しました》。


向かって左から2人めが父親の謙昌(よしまさ)さん(2009.5.3 京都競馬場で)

小学生で競馬に「一目ぼれ」(7/23付) 
日本で幼い頃から馬に接する人は珍しい。騎手や調教師に厩舎関係者の家庭で育った人が多いのも、そんな事情からだ。藤井勘一郎は、奈良県御所市の競馬とは無縁の家庭で育った。競馬との最初の接点は小学6年に進む直前の1995年3月。偶然見たテレビの画面に心を奪われた。弥生賞を圧勝し、無敗の4連勝を飾ったフジキセキ。種牡馬サンデーサイレンスの代表産駒で、父譲りの漆黒の馬体が印象的だった。

(オーストラリアでの)2年間の学校生活の後、2001年末に小さな競馬場でデビューを果たした。豪州で免許を取ることは、厳しい競争の始まりに過ぎない。腕があればシドニーやメルボルンの賞金水準の高い競馬場で騎乗できるが、出世の階段を上っていくのはごく一握り。そんな環境で、2季目(02~03年シーズン)から、16→19→65→75と勝ち星を伸ばし、最後の2年は見習い騎手の勝利数ランク2位に入った。

(07年からシンガポールに拠点を移し)一時帰国を経て、永住権取得を念頭に08年に戻ったが、今度は以前のように勝てない。落馬事故などでリズムを崩してスランプに。そんな折に舞い込んだ釜山行きのオファー。釜山は近年、日本の地方所属騎手が数多く活躍している。「最後の賭け」の思いで飛び立った。



ご長男は1歳

回り道、視線は夢の日本へ(7/24付)
18歳になる直前から、藤井勘一郎は「外国人騎手」として生きてきた。国内では一度も乗っていない。外国人騎手は、技量に加え、言葉の壁を乗り越えることも要求される。オーストラリアで出発した藤井にとっては、英語が関門だった。渡航前から「かなり勉強した」と言い、現地でもホームステイをして、話す機会を増やした。釜山の通訳とも英語で話す。若手騎手は騎乗馬を確保するため、厩舎を回って調教を手伝うのが“営業”の第一歩だが、言葉が通じないと、調教のさじ加減も決められない。

「通じる」だけでも足りない。実戦での状況を的確に伝え、次のコースの指針になるコメントをすれば、負けても次戦を任されることが多くなる。そこで、馬の気性や癖、体調など、調教の際に気付いた点を細かくメモに残す。レース前日は騎乗馬の過去の映像を繰り返し見て、レース後もまたメモ。研究に研究を重ねるのが、藤井の流儀だ。

釜山での免許は9月で切れる。更新がなければ永住権を持つ豪州に戻るが、視線は国内に向く。「中央競馬に憧れて騎手になった以上は中央で乗りたい」。2009年にも中央の免許試験を受験していた(今秋、再受験の予定)。

現在の自身を藤井は「夢の中で生きている」と表現する。騎手の夢をかなえ、国内舞台という次の目標を追う。世界を渡り歩く傍らには、妻と1歳の長男もいる。「両親や家族の支えが自分の基盤」。周囲の思いに応え、理想とする「本物のプロ」に近づくため、回り道の騎手人生をこつこつと歩き続ける。


釜山競馬場でご両親と(3月)

いかがだろう。夢を追い、次々とそれらを実現していくたくましい若者像が浮かび上がってくる。韓国での騎乗も、はや1年以上が経過した。勘一郎さんのブログ記事韓国遠征一年経過によると《韓国での騎乗を去年の6月29日にデビューしてから、早くも1年が経ちました。おかげさまで、関係者のみなさんのサポートに恵まれ、中間リーディング(ランキング)は現在2位に入っています。もちろん、今年は釜山の1位を目指します!!大井競馬場との交流競走が正式に発表され、韓国競馬も世界的にこれから、どんどん良くなっていくと思います》。

「中央競馬に憧れて騎手になった以上は中央で乗りたい」とおっしゃる勘一郎さん。日本のご両親やご家族の前で、ぜひ勇姿を見せていただきたいものである。ガンバレ!Joe Fujii!
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする