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真田丸(39)歳月

2016年10月07日 | 日々是雑感
前回(10/2)のNHK大河ドラマ「真田丸」は、「第39回歳月」だった。紀州九度山で過ごした信繁たちの平和な歳月が描かれる。NHKのHP「あらすじ」によると、
※画像はすべて、NHKの同番組ホームページから拝借

信繁は、春らとの九度山での暮らしを満喫していた。信之にも、赦免嘆願はもう不要だと答える。ただ、父としては長男の大助をどのように育てるべきなのかに悩んでいた。一方、かつて信繁がルソンに逃がしたたかが、海外の珍しい紐(ひも)を持って訪ねてくる。信繁はその紐を見てあることを思いつく。そんなある夜、謎の人物が突然現れ、信繁を迎えに来たと告げる!



今日は、この回に登場した「真田紐」と「そばがき」の話を紹介する。まずは真田紐。紀州九度山出身の私としては、子どもの頃から見慣れたもので、真田庵(昌幸・信繁父子らが住んでいた屋敷跡に建てられたという尼寺)でも売っていた。今は九度山町の梅下百貨店が、いろんな種類のものを取りそろえている。

先日、私が「真田丸」の講演をしたとき、梅下百貨店で買った真田紐を見てもらったところ、皆さんとても興味深そうに触っておられた。真田紐のことは、真田紐師 江南(えなみ)のHPに詳しく出ている。抜粋すると、

雑誌・テレビを含めて、よく「真田紐」と「組紐」を混同されている方が多いのですが、真田紐は組紐の一種ではなく、独立した一つの紐種で、作り方も使い方も異なります。三つ編みの様に複数の縦糸だけを丸台などを使い、斜めに糸を交互に組んで紐にしてゆく「組紐」に対し、機(ハタ)などを使い縦糸と横糸で平たい紐状に織ってゆくものを「真田紐」と言います。「組む」のではなく「織る」のです。

組紐はシルクロードから中国の宮中に入り日本の宮中に伝来した主に絹製紐で古くから宮中や神社で使われる紐です。実は宮中の紐である組紐は宮中の文書や御物から伝来時期やルートなどがある程度分かっておりますが真田紐は武士・民間の紐でありますので書物などから記録を辿る事があまりできません。ですので現存する伝承工芸品や伝承を辿っての推測となりますので予めおことわりしておきます。



真田紐は、戦国時代の武将、真田幸村が作り始めたと言われておりますが、実はその歴史はもう少し古く鎌倉・平安時代位に現在のネパールなどで作られていた獣毛を使った細幅織物である「サナール」が後の商業ルートになった南方仏教の伝来路を伝い仏典やインド更紗など交易品を縛り共に海路日本に伝来したのではないかと言われております。(真田紐の語源として「サナール説」はこういったところから言われる説です。)


ドラマの中で、ルソンから戻った秀次の娘・たかがネパールの「サナール紐」を信繁に見せるシーンがあり、信繁は「上田の紐に似ている」とつぶやく。そしてサナール紐をお手本にして真田紐を作り、全国に売り出すことを思いついた…。このシーンのおかげで《「真田丸」効果で真田紐完売》というニュースも出ていた。



もう1つは「そばがき」。『大辞林』には《蕎麦粉を熱湯で練ったもの。醬油やつゆをつけて食べる。そばねり》とあり、「そば切り」と区別される。『世界大百科事典』によると、そば切りとは

文献では《続日本紀》の養老6年(722)7月19日の詔が最も古く,奈良時代に救荒作物として栽培されていたことがわかる。現在はそばといえば,細長い線状のそば切りを指すが,そば切りが考案されるまでの食べ方は,脱穀したソバの実(そば米)を雑穀類と混ぜて食べる粒食や,そばがき,そば餅などの粉食が行われた。

そば切りの登場時期は明らかでないが,近江多賀大社の社僧であった慈性(じしよう)の《慈性日記》慶長19年(1614)2月3日のくだりには,江戸の常明寺でそば切りのちそうにあずかったことが記されており,格別珍しがっていないようすからみると,慶長年間(1596‐1615)には普及していたとも考えられる。




真田丸では、信之から送られてきたそばを「そばがき」にして「あ〜じ〜よ〜しのそ〜ば〜 召され候え〜」と、「瓜売」に出てきた歌を使って売り歩くが全く売れなかった、というシーンが紹介されていた。有働アナの「そばがきを細く切った現代の形のそばが定着するのは、もう少し先の話である」というナレーションが流れていたが、「そば切りを考案し、はじめてそれを食べたのは真田信繁」という説もある。

以前、NHKで放送された『真田太平記』では、九度山での苦難の日々が描かれていたが、大河ドラマでは、皆が九度山の生活を楽しんでいる様子なので「あぁ、良かった」と胸をなで下ろしている。やはり郷里の描かれ方は気になるものだ。最後の「真田丸紀行」では、顔見知りの町内の奥さんたちが真田紐を織っているシーンも登場した。

この回の最後に、明石全登(あかし・たけのり)が信繁を訪ねてくる。早くも大坂の陣が始まるのだ。次回(10/9)のタイトルは「第40回 幸村」。いよいよ信繁は講談本などに描かれたヒーロー「真田幸村」として生まれ変わる、これは楽しみだ。

では今回も締めは藤丸タダアキさんにお願いする。彼のブログによると、



真田丸39話歳月の感想を書きます。信繁一行が紀州九度山に引っ越して早10年。関ケ原が1600年なので、1610年ということですね。真田丸39話の歳月はこの1610年から大坂の陣の手前までを描いています。

昌幸は生前、九度山でも大名として振る舞っていたようです。実際に昌幸から信之あての仕送りの催促状が残っています。昌幸の逝去後、信繁への仕送りは減ったといわれています。昌幸時代の借金の返済への努力がこの後実を結んでいきます。

江戸の町で昌幸の妻と信之の家族などが出てきました。真田家は終始家族仲が良く描かれています。実際にそうだったことを証拠付ける文章なども残っています。

信繁は商売を開始します。まずは蕎麦から売り始めました。これは創作でしょう。そして、真田紐が出てきました。伝承としては真田紐は真田信繁とその妻のはるが考案したと言われています。



豊臣秀次の娘たかが出てきました。それがルソンから紐を持って帰ってきます。信繁はそれを見て信州の紐を思い出し、真田紐を考案します。かなりそれっぽい脚本です。

真田家は真田紐を売りながら諸国の情報を集めていたといわれています。このあたりも知恵深さの見えるところですね。後に大坂の陣に入場する人物で同じような境遇の人物は何人かいます。長曾我部盛親や塙団衛門がそうですが、ついには商売などはしませんでした。

そう考えると、信繁とその真田家はやはりユニークですね。その結果、真田紐が売れて、生活が豊かになりました。10年の生活の中で見えてきた信繁一行の柔軟力。真田丸39話歳月では、この柔軟力や改善力が目立ちました。そして、名実ともに、信繁のパーティーになっていきます。真田丸39話歳月はそのまま平和に終わってしまう雰囲気でした。

信繁たちに力がついてきた時に、明石全登が登場します。真田丸39話歳月の感想。努力をして成果を上げた信繁にその心を揺さぶる話が入ってきます。信繁はまだ世間から忘れられていませんでした。歳月は人を待たずといいますが、歳月は信繁を成長させ、また表舞台に引きずり出します。歳月は人を待った。これが私の真田丸39話歳月の感想です。一言・・・。

真田丸は39話が終わり、40話から最終章に入ります。信繁のクライマックスが近づいてきました。真田丸39話歳月の感想を書きました。
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