一週遅れの紹介となってしまった。前回(9/25)のNHK大河ドラマ「真田丸」は、「第38回 昌幸」だった。NHKのHP「あらすじ」によると、
※画像はすべてNHKのホームページから拝借
紀州九度山村に幽閉となった昌幸と信繁ら一行。昌幸は信之を通じ何度も赦免を願い出るが、家康はそれを無視して着々と天下取りを進めていく。一方、一つ屋根の下で共に暮らすことになったきりと春。信繁ときりの信濃での思い出話を聞き、春は思い悩む。やがて月日が経ち、死期を悟った昌幸は、ある夜信繁に、徳川と豊臣が将来激突した場合の策を授ける。
いよいよ昌幸は九度山で最期を迎えた。高野山に流されたのは関ヶ原の年なので1600年、昌幸の死の年は1611年とされているので、ドラマ1回分で11年が過ぎたのだ。これで草刈正雄が登場しなくなるとは、寂しい。そういえば本多忠勝も加藤清正も、これで見納めなのだ。
オリコンのHPに、「【真田丸】さらば昌幸…草刈正雄、1年に及ぶ撮影を完走 ブログのコメントが励みに」という話が出ていた。
最大の変化は「ブログを始めたこと」。これまでSNSに触れることがなかった草刈が、3月20日にブログを開設。本編の撮影だけでなく、関連イベントに出演するため全国各地を訪れた様子などを伝え、注目を集めている。
「ブログをはじめたら、皆さんからいただくコメントがうれしくて。励みになりました。放送を観て感想を書いてくださって、皆さんが細かいところまで観てくださっているのもよくわかりました。印象に残っているコメントは、『昌幸を観ているのか、草刈さんを観ているのか、よくわからなくなった』というものですね」。
変わらなかったことは、1985年に同局で放送された時代劇『真田太平記』で故・丹波哲郎さん演じた昌幸のイメージだった。同作では草刈が息子の幸村役で出演していた。『真田丸』の撮影が始まってまだ間もない頃、「丹波さんが演じた昌幸の印象が頭から離れない」「スタジオのどこかから丹波さんが見ているような気さえした」と話していた草刈。
『真田丸』の昌幸を演じきった後でも思うのは「丹波さんがどんどん出てきました。僕のせりふ回しも、ボケ~とした感じも丹波さんあってのものですよ(笑)。丹波さん自身もお茶目な人で、本当にはまり役でしたからね。無意識のうちに丹波さんになっちゃっている時がありました。そういうときは演じていても楽しくて。本当に助けていただきました」。
ドラマ『真田太平記』は私も見ていた。丹波哲郎は、トボけた感じや色好みの感じを出していて、これは興味深かった。草刈は少し違ったが、時々トボけた味を出していて「おお、ここは丹波哲郎が入っているな」と思って見ていた。
今回、成長した秀頼が出ていた。演じるのは俳優・モデルの中川大志。堂々とした偉丈夫に成長していた。中川の身長は178.5cmというが、おそらくこのような好青年だったのだろう。中川の演技も光っていた。
Wikipedia「豊臣秀頼」には《「秀吉公ノ実子ニアラズ 大野修理ト密通シ捨君ト秀頼君ヲ生セ給フト 」と記述する随筆『明良洪範』(増誉)に身長6尺5寸(約197cm)・体重43貫(約161kg)の並外れた巨漢であったとする。また、『長澤聞書』には「世に無き御太り」と記されている。家康が二条城で秀頼と会見した際に、秀頼の巨体から醸し出されるカリスマ性に恐怖し、豊臣家打倒を決意したという逸話もあるほど、武将としての威厳はあったとされている》。
「猿」と呼ばれた小柄で醜い秀吉には、似ても似つかなかったそうだ。子種がなかったとされる秀吉の子ではなく、大野修理や石田三成の子と言われるのもある意味当然かも知れない。
NHKのHPに、信長の弟・織田有楽斎(うらくさい)役が井上順に決まった、と出ていた。茶人で晩年は飄々(ひょうひょう)と趣味に生きたという有楽斎のイメージは、元スパイダースのボーカルで「夜のヒットスタジオ」で軽妙な司会を務めた井上のイメージと重なる。
なお有楽斎の息子の長政(四男)は戒重藩(後の芝村藩)、尚長(五男)は柳本藩の藩祖で、いずれも1万石の外様大名として明治まで続いている。そんな奈良ゆかりの有楽斎がどんなシーンで登場するか、これは楽しみである。ではおしまいに、藤丸タダアキさんのブログ「地域活性局」から感想を紹介しておく。
紀州九度山に幽閉される昌幸と信繁。関ケ原から大坂城入場までの信繁の九度山での生活。真田丸38話昌幸の感想を書きます。
挨拶に出向いて、いきなり地元の住民からの洗礼を受けた信繁。佐助は1日で家を作りました。家をすぐに建てることができて、絵も描ける。佐助はこれから活躍しそうな描写です。
真田一行は限られた人数で暮らす中で 今までよりも内部の交流は濃くなっていきます。一方、信州に残された信之と稲と母と姉。信之は何度も家康に赦免を願いますが、家康は許しませんでした。家康の天下となり、徳川から嫁に来た稲が権勢を誇ります。本多忠勝は小刀で手を傷つけます。この話は晩年、忠勝は小刀で手を傷つけ死を悟ったという話の転嫁です。
加藤清正は徳川家康と豊臣秀頼の対面を模索します。秀頼が登場します。石田三成は加藤清正に託していました。「自分に万が一があった際は秀頼さまを頼む」。家康は上段から天下人として秀頼と会いました。しかし、秀頼の威容に思わず頭を下げてしまいました。その後、加藤清正は帰国途中に船中で死亡。毒殺説が根強く残っています。また、これに前後して、豊臣に恩のある人物が次々と亡くなっています。
信繁に息子大助幸昌(幸綱)が生まれます。大助は村人に虐められたという話が出ましたが、その後、立派に役目を果たすことになります。
昌幸は倒れます。そして信繁に10年間練った作戦を話します。豊臣家と徳川家の手切れの際に豊臣方に参加する前提の作戦。まずは尾張(愛知)に踏み出し、全国の反徳川の心をつかむ。そして近江(滋賀)まで戻り、瀬田と宇治の橋を落とし、時間を稼ぐ。二条城を焼き払った上で大阪城で戦う。戦は長引かせるだけ長引かせることで全国の反徳川も動き出す。徳川勢は大阪城だけにかかわっていられなくなり引き返すだろう。
そして戦の心得を一つ教えました。「軍勢を一つのカタマリと思うな」「1人1人が生きている、思いを持っている」「それをゆめゆめ忘れるな」昌幸は亡くなります。「上田に帰りたかった」。そして最後に幻想を見たようです。御屋形様…。 武田信玄でしょう。昌幸は死ぬまで武田信玄を尊敬していたのでしょう。
真田丸38話昌幸の感想。8年ぐらいをダイジェストで流していた感じです。ところどころに逸話を混ぜた情景を出していました。稀代の戦略家の死去。そして信繁は自立することになっていきます。信之からの仕送りも減る中で、現代に残る大発明をします。それは真田丸39話「歳月」を待ちましょう。真田丸38話昌幸の感想を書きました。
※画像はすべてNHKのホームページから拝借
紀州九度山村に幽閉となった昌幸と信繁ら一行。昌幸は信之を通じ何度も赦免を願い出るが、家康はそれを無視して着々と天下取りを進めていく。一方、一つ屋根の下で共に暮らすことになったきりと春。信繁ときりの信濃での思い出話を聞き、春は思い悩む。やがて月日が経ち、死期を悟った昌幸は、ある夜信繁に、徳川と豊臣が将来激突した場合の策を授ける。
いよいよ昌幸は九度山で最期を迎えた。高野山に流されたのは関ヶ原の年なので1600年、昌幸の死の年は1611年とされているので、ドラマ1回分で11年が過ぎたのだ。これで草刈正雄が登場しなくなるとは、寂しい。そういえば本多忠勝も加藤清正も、これで見納めなのだ。
オリコンのHPに、「【真田丸】さらば昌幸…草刈正雄、1年に及ぶ撮影を完走 ブログのコメントが励みに」という話が出ていた。
最大の変化は「ブログを始めたこと」。これまでSNSに触れることがなかった草刈が、3月20日にブログを開設。本編の撮影だけでなく、関連イベントに出演するため全国各地を訪れた様子などを伝え、注目を集めている。
「ブログをはじめたら、皆さんからいただくコメントがうれしくて。励みになりました。放送を観て感想を書いてくださって、皆さんが細かいところまで観てくださっているのもよくわかりました。印象に残っているコメントは、『昌幸を観ているのか、草刈さんを観ているのか、よくわからなくなった』というものですね」。
変わらなかったことは、1985年に同局で放送された時代劇『真田太平記』で故・丹波哲郎さん演じた昌幸のイメージだった。同作では草刈が息子の幸村役で出演していた。『真田丸』の撮影が始まってまだ間もない頃、「丹波さんが演じた昌幸の印象が頭から離れない」「スタジオのどこかから丹波さんが見ているような気さえした」と話していた草刈。
『真田丸』の昌幸を演じきった後でも思うのは「丹波さんがどんどん出てきました。僕のせりふ回しも、ボケ~とした感じも丹波さんあってのものですよ(笑)。丹波さん自身もお茶目な人で、本当にはまり役でしたからね。無意識のうちに丹波さんになっちゃっている時がありました。そういうときは演じていても楽しくて。本当に助けていただきました」。
ドラマ『真田太平記』は私も見ていた。丹波哲郎は、トボけた感じや色好みの感じを出していて、これは興味深かった。草刈は少し違ったが、時々トボけた味を出していて「おお、ここは丹波哲郎が入っているな」と思って見ていた。
今回、成長した秀頼が出ていた。演じるのは俳優・モデルの中川大志。堂々とした偉丈夫に成長していた。中川の身長は178.5cmというが、おそらくこのような好青年だったのだろう。中川の演技も光っていた。
Wikipedia「豊臣秀頼」には《「秀吉公ノ実子ニアラズ 大野修理ト密通シ捨君ト秀頼君ヲ生セ給フト 」と記述する随筆『明良洪範』(増誉)に身長6尺5寸(約197cm)・体重43貫(約161kg)の並外れた巨漢であったとする。また、『長澤聞書』には「世に無き御太り」と記されている。家康が二条城で秀頼と会見した際に、秀頼の巨体から醸し出されるカリスマ性に恐怖し、豊臣家打倒を決意したという逸話もあるほど、武将としての威厳はあったとされている》。
「猿」と呼ばれた小柄で醜い秀吉には、似ても似つかなかったそうだ。子種がなかったとされる秀吉の子ではなく、大野修理や石田三成の子と言われるのもある意味当然かも知れない。
NHKのHPに、信長の弟・織田有楽斎(うらくさい)役が井上順に決まった、と出ていた。茶人で晩年は飄々(ひょうひょう)と趣味に生きたという有楽斎のイメージは、元スパイダースのボーカルで「夜のヒットスタジオ」で軽妙な司会を務めた井上のイメージと重なる。
なお有楽斎の息子の長政(四男)は戒重藩(後の芝村藩)、尚長(五男)は柳本藩の藩祖で、いずれも1万石の外様大名として明治まで続いている。そんな奈良ゆかりの有楽斎がどんなシーンで登場するか、これは楽しみである。ではおしまいに、藤丸タダアキさんのブログ「地域活性局」から感想を紹介しておく。
紀州九度山に幽閉される昌幸と信繁。関ケ原から大坂城入場までの信繁の九度山での生活。真田丸38話昌幸の感想を書きます。
挨拶に出向いて、いきなり地元の住民からの洗礼を受けた信繁。佐助は1日で家を作りました。家をすぐに建てることができて、絵も描ける。佐助はこれから活躍しそうな描写です。
真田一行は限られた人数で暮らす中で 今までよりも内部の交流は濃くなっていきます。一方、信州に残された信之と稲と母と姉。信之は何度も家康に赦免を願いますが、家康は許しませんでした。家康の天下となり、徳川から嫁に来た稲が権勢を誇ります。本多忠勝は小刀で手を傷つけます。この話は晩年、忠勝は小刀で手を傷つけ死を悟ったという話の転嫁です。
加藤清正は徳川家康と豊臣秀頼の対面を模索します。秀頼が登場します。石田三成は加藤清正に託していました。「自分に万が一があった際は秀頼さまを頼む」。家康は上段から天下人として秀頼と会いました。しかし、秀頼の威容に思わず頭を下げてしまいました。その後、加藤清正は帰国途中に船中で死亡。毒殺説が根強く残っています。また、これに前後して、豊臣に恩のある人物が次々と亡くなっています。
信繁に息子大助幸昌(幸綱)が生まれます。大助は村人に虐められたという話が出ましたが、その後、立派に役目を果たすことになります。
昌幸は倒れます。そして信繁に10年間練った作戦を話します。豊臣家と徳川家の手切れの際に豊臣方に参加する前提の作戦。まずは尾張(愛知)に踏み出し、全国の反徳川の心をつかむ。そして近江(滋賀)まで戻り、瀬田と宇治の橋を落とし、時間を稼ぐ。二条城を焼き払った上で大阪城で戦う。戦は長引かせるだけ長引かせることで全国の反徳川も動き出す。徳川勢は大阪城だけにかかわっていられなくなり引き返すだろう。
そして戦の心得を一つ教えました。「軍勢を一つのカタマリと思うな」「1人1人が生きている、思いを持っている」「それをゆめゆめ忘れるな」昌幸は亡くなります。「上田に帰りたかった」。そして最後に幻想を見たようです。御屋形様…。 武田信玄でしょう。昌幸は死ぬまで武田信玄を尊敬していたのでしょう。
真田丸38話昌幸の感想。8年ぐらいをダイジェストで流していた感じです。ところどころに逸話を混ぜた情景を出していました。稀代の戦略家の死去。そして信繁は自立することになっていきます。信之からの仕送りも減る中で、現代に残る大発明をします。それは真田丸39話「歳月」を待ちましょう。真田丸38話昌幸の感想を書きました。