NHK「真田丸」、最終回(12/18)の撮影は10/27(木)に終了したそうだ。livedoorNEWS(10/29)《「真田丸」撮影終了 最後のシーンが公開されない異例の形に》によると、
NHKは28日、俳優・堺雅人(43)主演で現在放送中の大河ドラマ「真田丸」の撮影が27日に終了したと発表した。大河のクランクアップがメディアに公開されないのは異例。同局の関係者は「最後のシーンはこの物語が集約される形になっているので期待してほしい」と話している。
関係者によると、同局のスタジオで撮影。主人公の真田幸村が大坂夏の陣で敗れ死んでゆく場面だった。昨年9月1日の撮影開始以来、この作品に力を注いできた堺は充実感いっぱいの表情を浮かべていたという。
堺は同局を通じてコメントを発表。「真田丸」を船に例え「乗り心地がいいとは言えなかったし、どこに連れていかれるか分からなかったが、誰も見たことのない景色をたくさん見せてもらった。楽しい船旅を過ごすことができた」と話した。放送は12月18日まで。
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閑話休題。1週遅れの紹介になってしまったが、前回(10/23)のNHK大河ドラマ「真田丸」は、「第42回 味方」だった。NHKの番組HPからあらすじを拾うと、
幸村は、久しぶりに茶々との再会を果たす。一方、家康は、幸村が大坂方に加わったことに大きな恐れを抱き、出陣を急ぐ。大坂城に集まった牢人たちの中には、後藤又兵衛、毛利勝永、長宗我部盛親らがいた。豊臣秀頼は幸村に総大将になってもらいたいと願っていたが、又兵衛や勝永らは激しく異議を唱える。そこで、幸村は1つの策を提案する。
NHKのHPには「牢人」と出ているが、通常は「浪人」だ。脚本家の三谷幸喜のこだわりなのだろうか。牢人と浪人はどう違うのか、平凡社新書『牢人たちの戦国時代』の説明書きによると、
現代では「浪人」が一般的だが、これは郷土を離れて、諸国を流浪する浮浪人のことを指した。本書で取り上げる「牢人」は、主家を去り封禄を失った人のこと、つまり、雇い主が戦に負けて、勤め先がなくなった「非正規身分」となった武士のことである(あるいは自ら去った)。
こうした牢人が、戦国時代には大量に出た。武田信玄の「軍師」山本勘助や、大坂の陣で活躍した後藤又兵衛基次、真田幸村(信繁)。関ヶ原合戦で無残な敗北を喫した長宗我部盛親など、有名な人物も多いが、その多くは、名前を知られることもない武士たちであった。
彼らはどう生きたのか。勝者の歴史に埋もれた敗者の「その後」を、丹念な史料の読み解きから、鮮やかに描きだす。語られることのなかった敗者の群像が今よみがえる。
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「雇い主が戦に負けて勤め先がなくなった『非正規身分』となった武士」とは分かりやすい説明だ。大坂城に集まったのは、そのような武士の代表格だったのだ。
大坂城に入った幸村は、茶々と再会し、こう宣言する。「勝つために参りました。必ずや家康の首を取って見せまする」。おそらく、本当にこれくらいのことは言っただろう。そこに、井上順扮する織田有楽斎(うらくさい)が同席していた。
有楽斎の本名は織田長益(ながます)で、信長の弟である。茶々の叔父で、茶道「有楽流」の祖。関ヶ原の戦には徳川につき大和で3万石を与えられた。のちに四男は柳本藩、五男は芝村藩のそれぞれ藩祖となった。有楽町(東京都千代田区)の名は、有楽斎の住居があったからその名がついたと言われる。
さんざん幸村を持ち上げておいて、あとで「このくらいおだてればよかろう」。井上順はまさにはまり役だった。井上は堺正章とともに元スパイダースのボーカルだった、と言っても、若い人には分からないだろうなぁ。
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幸村が案内された場所は、かつて石田三成と大谷吉継(幸村の岳父)がいた書庫。無人の部屋で幸村は三成と吉継に「帰って来ました」と挨拶した。これには胸がジーンとなった。
一方、駿府の徳川家康は、真田が大坂城に入ると聞いて動揺する。襖をつかんでガタガタ揺らしながら「それは父か、子か」と聞く。これは講談などにもよく登場する有名なシーンだ。昌幸が死んだことは知っていただろうから、これは少しオーバーだが。
幸村と会った豊臣秀頼は、一目で幸村を気に入り、「総大将になってくれ」というが、牢人たちの意見はまとまらない。そこで幸村は「10万の兵を5分割し、それぞれに大将を置く。その上に総大将として秀頼公を置く」と提案する。5人の将とは「真田幸村・明石全登・毛利勝永・長宗我部盛親・後藤又兵衛」である。こうして合議制が出来上がった。いよいよ次回はこの5人による軍議が開かれる、大坂の陣も近いぞ。
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さて締めに、藤丸タダアキさんの感想を紹介する。タイトルは「如才ない有楽斎は実は裏切者だった」。
大坂城には有名無名様々な浪人が入城します。著名な人物には豊臣家からあらかじめ誘いがありました。長曾我部盛親・明石全登・毛利勝永・後藤又兵衛・そして真田幸村です。大坂五人衆ですね。この中で旧大名は長曾我部盛親のみです。
かつての身代は以下の通りです。長曾我部盛親24万石。明石全登10万石。後藤又兵衛1.2万石。真田信繁は父が10万石、毛利勝永も父が5万石です。
一方で、実戦経験でいえば後藤又兵衛が最も豊かだったでしょう。後藤又兵衛は天下の名参謀黒田如水が薫陶した侍大将でした。関ケ原の戦いで活躍した明石全登も申し分のない実戦経験があります。それに対して、長曾我部盛親は関ヶ原で傍観せざるを得ない立場に立たされて改易。毛利勝永は朝鮮出兵や関ケ原初戦で活躍をしています。
そして幸村。幸村は父昌幸と共に徳川家を2度も破っていますが、それは昌幸の名声になっています。真田丸42話味方。総大将を決めかねている形になっています。しかし、実際は茶々(淀)の考えは一択でした。総大将は茶々の叔父である織田常真入道信雄。しかし、この信雄はさんざん法螺を吹いたうえで遁走します。
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織田有楽斎も茶々の叔父にあたります。結局、実際のところ、茶々は肉親しか信用していませんでした。しかし、実は有楽斎は内通していました。大坂の陣冬の陣の際に有楽斎はわざと自分の持ち場の防戦を怠慢しました。その際は、城内の男女問わず、瓦を投げてまで防戦したといわれています。そして大坂冬の陣が終わって、色々と理由を付けて、大阪城を去ります。さらに大坂城退去を家康の許可を取って行っています。
幸村は石田三成や大谷吉継が使っていた部屋に入ります。かつて20万石近くの身代だった三成の部屋に浪人真田幸村が入ります。豊臣家の衰退。入城する浪人が多いので部屋が足りない…。部屋はあったでしょう。しかし猛将後藤又兵衛とクリスチャン明石全登が同じ部屋というのは面白いですね。
家康は幸村の入城を聞いて狼狽します。実際にそういう逸話が残っています。家康の小心者ぶりは今後、大坂の陣で面白く描かれていくでしょう。恐妻家徳川秀忠の妻、江が出てきました。
大坂の陣と聞いて、真田信之の家中にも亀裂が入ります。真田丸42話味方では、徳川と豊臣の開戦を前に日本中に亀裂が入ります。しかし、家康は十分に勝つ準備を行って大坂へ向かいます。豊臣家の内部はすでに裏切者ばかりでした。真田丸42話味方。入城した著名な武将以外は味方であったか怪しいです。
真田丸42話味方の感想を書きました。真田丸43話は軍議という題がついています。幸村の本領発揮です。始まります。大坂の陣。楽しみです。
NHKは28日、俳優・堺雅人(43)主演で現在放送中の大河ドラマ「真田丸」の撮影が27日に終了したと発表した。大河のクランクアップがメディアに公開されないのは異例。同局の関係者は「最後のシーンはこの物語が集約される形になっているので期待してほしい」と話している。
関係者によると、同局のスタジオで撮影。主人公の真田幸村が大坂夏の陣で敗れ死んでゆく場面だった。昨年9月1日の撮影開始以来、この作品に力を注いできた堺は充実感いっぱいの表情を浮かべていたという。
堺は同局を通じてコメントを発表。「真田丸」を船に例え「乗り心地がいいとは言えなかったし、どこに連れていかれるか分からなかったが、誰も見たことのない景色をたくさん見せてもらった。楽しい船旅を過ごすことができた」と話した。放送は12月18日まで。
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閑話休題。1週遅れの紹介になってしまったが、前回(10/23)のNHK大河ドラマ「真田丸」は、「第42回 味方」だった。NHKの番組HPからあらすじを拾うと、
幸村は、久しぶりに茶々との再会を果たす。一方、家康は、幸村が大坂方に加わったことに大きな恐れを抱き、出陣を急ぐ。大坂城に集まった牢人たちの中には、後藤又兵衛、毛利勝永、長宗我部盛親らがいた。豊臣秀頼は幸村に総大将になってもらいたいと願っていたが、又兵衛や勝永らは激しく異議を唱える。そこで、幸村は1つの策を提案する。
![]() | 牢人たちの戦国時代 (平凡社新書) |
渡邊 大門 | |
平凡社 |
NHKのHPには「牢人」と出ているが、通常は「浪人」だ。脚本家の三谷幸喜のこだわりなのだろうか。牢人と浪人はどう違うのか、平凡社新書『牢人たちの戦国時代』の説明書きによると、
現代では「浪人」が一般的だが、これは郷土を離れて、諸国を流浪する浮浪人のことを指した。本書で取り上げる「牢人」は、主家を去り封禄を失った人のこと、つまり、雇い主が戦に負けて、勤め先がなくなった「非正規身分」となった武士のことである(あるいは自ら去った)。
こうした牢人が、戦国時代には大量に出た。武田信玄の「軍師」山本勘助や、大坂の陣で活躍した後藤又兵衛基次、真田幸村(信繁)。関ヶ原合戦で無残な敗北を喫した長宗我部盛親など、有名な人物も多いが、その多くは、名前を知られることもない武士たちであった。
彼らはどう生きたのか。勝者の歴史に埋もれた敗者の「その後」を、丹念な史料の読み解きから、鮮やかに描きだす。語られることのなかった敗者の群像が今よみがえる。
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「雇い主が戦に負けて勤め先がなくなった『非正規身分』となった武士」とは分かりやすい説明だ。大坂城に集まったのは、そのような武士の代表格だったのだ。
大坂城に入った幸村は、茶々と再会し、こう宣言する。「勝つために参りました。必ずや家康の首を取って見せまする」。おそらく、本当にこれくらいのことは言っただろう。そこに、井上順扮する織田有楽斎(うらくさい)が同席していた。
有楽斎の本名は織田長益(ながます)で、信長の弟である。茶々の叔父で、茶道「有楽流」の祖。関ヶ原の戦には徳川につき大和で3万石を与えられた。のちに四男は柳本藩、五男は芝村藩のそれぞれ藩祖となった。有楽町(東京都千代田区)の名は、有楽斎の住居があったからその名がついたと言われる。
さんざん幸村を持ち上げておいて、あとで「このくらいおだてればよかろう」。井上順はまさにはまり役だった。井上は堺正章とともに元スパイダースのボーカルだった、と言っても、若い人には分からないだろうなぁ。
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幸村が案内された場所は、かつて石田三成と大谷吉継(幸村の岳父)がいた書庫。無人の部屋で幸村は三成と吉継に「帰って来ました」と挨拶した。これには胸がジーンとなった。
一方、駿府の徳川家康は、真田が大坂城に入ると聞いて動揺する。襖をつかんでガタガタ揺らしながら「それは父か、子か」と聞く。これは講談などにもよく登場する有名なシーンだ。昌幸が死んだことは知っていただろうから、これは少しオーバーだが。
幸村と会った豊臣秀頼は、一目で幸村を気に入り、「総大将になってくれ」というが、牢人たちの意見はまとまらない。そこで幸村は「10万の兵を5分割し、それぞれに大将を置く。その上に総大将として秀頼公を置く」と提案する。5人の将とは「真田幸村・明石全登・毛利勝永・長宗我部盛親・後藤又兵衛」である。こうして合議制が出来上がった。いよいよ次回はこの5人による軍議が開かれる、大坂の陣も近いぞ。
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さて締めに、藤丸タダアキさんの感想を紹介する。タイトルは「如才ない有楽斎は実は裏切者だった」。
大坂城には有名無名様々な浪人が入城します。著名な人物には豊臣家からあらかじめ誘いがありました。長曾我部盛親・明石全登・毛利勝永・後藤又兵衛・そして真田幸村です。大坂五人衆ですね。この中で旧大名は長曾我部盛親のみです。
かつての身代は以下の通りです。長曾我部盛親24万石。明石全登10万石。後藤又兵衛1.2万石。真田信繁は父が10万石、毛利勝永も父が5万石です。
一方で、実戦経験でいえば後藤又兵衛が最も豊かだったでしょう。後藤又兵衛は天下の名参謀黒田如水が薫陶した侍大将でした。関ケ原の戦いで活躍した明石全登も申し分のない実戦経験があります。それに対して、長曾我部盛親は関ヶ原で傍観せざるを得ない立場に立たされて改易。毛利勝永は朝鮮出兵や関ケ原初戦で活躍をしています。
そして幸村。幸村は父昌幸と共に徳川家を2度も破っていますが、それは昌幸の名声になっています。真田丸42話味方。総大将を決めかねている形になっています。しかし、実際は茶々(淀)の考えは一択でした。総大将は茶々の叔父である織田常真入道信雄。しかし、この信雄はさんざん法螺を吹いたうえで遁走します。
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織田有楽斎も茶々の叔父にあたります。結局、実際のところ、茶々は肉親しか信用していませんでした。しかし、実は有楽斎は内通していました。大坂の陣冬の陣の際に有楽斎はわざと自分の持ち場の防戦を怠慢しました。その際は、城内の男女問わず、瓦を投げてまで防戦したといわれています。そして大坂冬の陣が終わって、色々と理由を付けて、大阪城を去ります。さらに大坂城退去を家康の許可を取って行っています。
幸村は石田三成や大谷吉継が使っていた部屋に入ります。かつて20万石近くの身代だった三成の部屋に浪人真田幸村が入ります。豊臣家の衰退。入城する浪人が多いので部屋が足りない…。部屋はあったでしょう。しかし猛将後藤又兵衛とクリスチャン明石全登が同じ部屋というのは面白いですね。
家康は幸村の入城を聞いて狼狽します。実際にそういう逸話が残っています。家康の小心者ぶりは今後、大坂の陣で面白く描かれていくでしょう。恐妻家徳川秀忠の妻、江が出てきました。
大坂の陣と聞いて、真田信之の家中にも亀裂が入ります。真田丸42話味方では、徳川と豊臣の開戦を前に日本中に亀裂が入ります。しかし、家康は十分に勝つ準備を行って大坂へ向かいます。豊臣家の内部はすでに裏切者ばかりでした。真田丸42話味方。入城した著名な武将以外は味方であったか怪しいです。
真田丸42話味方の感想を書きました。真田丸43話は軍議という題がついています。幸村の本領発揮です。始まります。大坂の陣。楽しみです。