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tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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歴史バトル「邪馬台国はどこだ?」(PARTⅡ)楽しく閉幕!

2016年10月10日 | 奈良にこだわる
昨日(10/9)、明日香村の奈良県立万葉文化館で「第5回おもしろ歴史フェスティバル『歴史を愉しむ』」が開催された。NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」からは、雑賀耕三郎理事が「畿内説」の論客として登壇した。早速、今朝(10/10)の奈良新聞に《邪馬台国 果てない謎 歴史フェス「畿内vs九州」論戦》の見出しで概要が掲載されている。抜粋すると、



第1部は、インターネット回線で、万葉文化館と佐賀県・吉野ヶ里歴史公園を結んで、昨年9月に続く2回目のバトル「邪馬台国はどこだ?」パート2を開催。邪馬台国の所在地を巡り、研究者や歴史愛好家らが論争を繰り広げた。

進行は前県立橿原考古学研究所調査課長の今尾文昭さんが担当。奈良会場では、邪馬台国畿内説の石野博信・香芝市二上山博物館名誉館長が、佐賀会場では九州説の高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授がそれぞれ持論を展開し、歴史愛好家の4人が応援する意見を述べた。



雑賀耕三郎さんのトークが始まった

石野氏は「纒向(まきむく)遺跡にはよその地域の人が住み着いていったことが土器の出土でわかり、都にふさわしい」と指摘。高島氏は「九州説が歴史理解に合理的」とし、大分県日田市のダンワラ遺跡で出土した卑弥呼時代のものと推定される鉄鏡を紹介した。集まった奈良会場の約350人、佐賀会場の約200人の歴史ファンが論争に聞き入った。



第2部は、キトラ古墳壁画体験館オープン記念「キトラ古墳と王塚古墳」と題し、フォーラムが行われた。奈良会場は、石野氏と阪南大学の来村多加史教授が「キトラ古墳と高松塚古墳の壁画世界」で、佐賀会場は、高島氏と元九州歴史資料館学芸二課長の石山勲さんが「装飾古墳の魅力」でそれぞれ講演し、意見交換した。


高島氏の話に出てきたダンワラ遺跡出土の鏡(金銀錯嵌珠龍文鉄鏡)は大変立派なものであるが、いまのところこれを卑弥呼と結びつける手がかりは得られていない。

CG復元 卑弥呼の鏡 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)


一方、簡単にいうと邪馬台国畿内説(=纒向説)のポイントは、

1.纒向遺跡は弥生時代末~古墳時代前期の遺跡で、この時期は『魏志倭人伝』と一致する。
2.出土した土器の製作地は関東~九州まで広がる。つまり纒向は、各地のリーダーの「交流センター」であり、クニの「本拠地」。
3.前方後円墳は、ヤマトから全国に展開した。
4.纒向遺跡では、卑弥呼が活躍した3世紀の大型建物跡、およびそれと一直線上に連なる建物群の遺跡の存在が判明した。また周辺からは祭祀に使われた遺物も出土した。




ということになる。状況証拠は揃ったが、まだ決意的な物証は得られていない。今後の発掘成果に期待したいところだ。

それにしても、とても面白いバトルだった。150人募集のところ350人も来られたとは、すごい。今はちょっとした「邪馬台国ブーム」の様相だ。「邪馬台国、学説では圧倒的に纒向説なのに、テレビの討論会などでは九州説優勢に見える。大和の人はおとなしすぎるのでは?」と言われ続けてきたが、雑賀さんは早口の名古屋弁(正確には岐阜弁)で纒向説を力説してくださった。

登壇された皆さん、ありがとうございました。雑賀耕三郎さん、これからもますますウデを磨いていただき、楽しいお話をお願いします!

(10/10追記)雑賀さんがこの模様をご自身のブログに書かれましたので、以下に紹介しておきます。

10月9日、インターネット回線で、吉野ケ里と奈良の万葉文化館を結んで、歴史バトル「邪馬台国はどこだ」(奈良新聞社など)が開催されました。今年の趣向は市民代表の参加で、その一員として10分ばかりの時間をいただきました。

8月のある日に、纒向遺跡の名付け親、石野博信先生から電話をいただきました。「邪馬台国の取り合いをする。あなた出てもらえますか」と、突然の電話が入った。まあ、それなりに快諾である。9月から10月にかけては「おとなび」で「卑弥呼の大和」ツアーを受けていたので、合わせての準備だった。僕は、こんなような話をしたのである。



はじめに纏向遺跡を見渡します。箸墓古墳、ホケノ山古墳、こちらが纒向石塚古墳。ここが遺跡の中枢部、ここに大型建物跡が出現しました。この遺跡の特徴は
●まずは大きい、広い。300haあります。
●各地方からの多数の搬入土器。吉備、東海、北陸、出雲、さらには九州から関東まで、纏向が広範囲なつながりを持っていた。
●土木工事用の工具が多く、農耕具が少ない。クワは無くて、スコップが出る・・一般的な環濠集落とは異なっていた
●箸墓古墳をはじめ、出現期の古墳が集中。古墳が多いところ、前方後円墳の始まりの地とされていますが

地下から出てきた膨大な遺物、地下構造物のあり方から、ここは日本の都市の始まり、都・宮の始まりではないか、具体的に言えば、ここはヤマト王権発祥の地、さらには邪馬台国畿内説の候補地として注目されるようになりました。



① 桜井市は平成21年、7年前の11月に「纏向遺跡第166次調査現地説明会」。この時の配布資料は、ネットで「纏向166次」と打ち込むと、今日でも、当時のままでプリントアウトできる。桜井市のベストセラー、ベストヒットです。纒向遺跡の名づけ親、初めからここを掘ってきた、こちらにみえる石野先生でさえ、「纒向からは(太い柱は)出ない。無かったか、細い柱で大きな建物を建てる技術革新があったのか」などと書かれた直後。

② 幅20メートルで奥行きが12,4メートル。250平方メートルもあった。発掘された柱穴(ちゅうけつ)から、柱の太さは32センチと15センチとされた。32㎝の柱、東西・南北に一直線。南北でみると柱穴列は5本、その間隔が約5メートル。その柱列(ちゅうれつ)の真ん中に15センチの柱がたち、これも東西に一直線である。太い柱が一直線、その間に細い柱が一直線。太いの、細いの、太いの、細いのである。太い柱は屋根を支える、細い柱は床を支える束柱とみることができる。



① BCD(建物)が一直線。しかも建物は方形である。
●まずは建物B 一辺が5メートル。
●そして建物C。南北8メートル、東西が5、2メートル。北の壁と南の壁の外側に柱穴がある。棟持柱穴(むなもちばしら)と判断された。屋根の一番高いところに棟木が通る、それを支える柱である。
●Dである。一番東から出てきた。南北が20メートル、東西は12、4メートルである。

② B、C、Dは庄内式前半、三世紀初めの土器を含む整地層を掘りこんで柱が建てられている。だから建物は 3世紀前半には建っていたのである。さらにこの遺跡には重要な特徴があった。
● 建物の隅の柱穴を切った溝 この溝からは庄内3式 250年
● 更に複数の柱穴を破壊する溝 これは布留0式の壺が。260年以降だ
つまり、この大型建物は 西暦200年から250年の間だけ存在した宮殿なのである。始まりが判り、終わりの時期が判っている。すごい発見である。

一直線に中軸線をとおす方形の建物で時期が明確。200年~250年の頃。誰がいましたか、何がありましたか。この国に。180年に卑弥呼共立、247年に卑弥呼以て死す。大いに冢(ちょう)をつくる。それは邪馬台国であり、卑弥呼だと言いたいのです。この宮殿こそ卑弥呼が、「鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑」わした場所だったのでないでしょうか。



① 黒塚古墳は纏向遺跡のすぐ近くです。盗掘や開発によって、原型を留めていない古墳も多いなかで、この黒塚古墳はまるでタイムカプセルのように、埋葬当時の状態で発見された。中世・近世は砦、お城として使われた歴史もある。130メートルほどの前方後円墳で、3世紀から4世紀にまたぐものである。

② 棺の外側に33枚の三角縁神獣鏡、棺の頭の前に画文帯神獣鏡が置かれた。
● その北側に不思議な「Ù字形鉄製品」。石室の大事な場所です。こんな所である。
● これが拡大図。二本のパイプは、叩いて丸めて作られた鍛造の鉄、正確な細工が施されており、弥生時代、古墳時代のものではきわめて特殊なもの。
● パイプには布の破片も付いていた。
● このÙ字形鉄製品は、魏書に記された黄幢(こうどう)との指摘がある。「其の六年(245年)、詔して倭の難升米に黄幢を賜ひ、郡に付して仮授せしむ」です。このU字形鉄製品こそ、魏書に記された黄幢。黄幢とは、黄色い吹き流しのような軍旗。この絵です。同時期の遼陽の壁画(北薗壁画墓)に黄幢とみられるものが描かれていた。

さて、このU字形鉄製品、これが黄幢となると、黒塚古墳は、難升米のお墓の可能性が高まります。どうでしょうか。考古学という学問を信じて、掘り出されたモノを信じれば、僕たちはその時代にたつことができる。言い換えれば、到達した科学的な知見を信じてその道をたどれば、邪馬台国は畿内、ピンポイントで纒向に行きつくだろう。         

長々と読んでいただき、ありがとうございました。飛鳥会場は350名もの入場。会場いっぱいの皆さんから暖かく、力強い反応がいただけました。バトルの勝敗は?僕の心の中では圧勝だが、まあ、これは当事者の自己採点ということで(笑)邪馬台国は、これからも勉強しながら、おりおり企画も作っていきたいと考えております。


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