毎月第3水曜日、奈良新聞の随筆コーナー「明風清音」欄に、観光にまつわるあれこれを寄稿しています。4月18日(水)付で掲載されたのは《「雪丸伝承」を検証する》。王寺町の公式マスコット「雪丸」は、ただのゆるキャラではなく、聖徳太子信仰に基づく由緒正しい名犬でした。同町教育委員会学芸員・岡島永昌(えいしょう)さんにご教示いただきました。岡島さん、ありがとうございました。では、全文を紹介します。
王寺町の雪丸をご存じだろうか。聖徳太子の愛犬とされ、同町の達磨寺(だるまじ)には、江戸時代の石像がまつられている。雪丸は平成25年6月に町の公式マスコットに認定、同年8月には町の観光・広報大使に就任した。県内のゆるキャラの中でも傑出した存在である。
さらに29年には空を飛ぶ「雪丸ドローン」が登場し、度肝を抜いた。動画(実写)は特設サイトで公開されている。今年は戌(いぬ)年なので、いっそ「雪丸そっくり犬コンテスト」でもやって、王寺町を盛り上げてほしいものだ。
この雪丸、単なるゆるキャラではない。聖徳太子信仰とともに語り継がれる由緒正しい名犬なのである。達磨寺は聖徳太子ゆかりの寺だ。寺には明治5年頃に書き写されたとみられる「達磨寺略記」がある。そこには、雪丸は聖徳太子が飼っていた犬で、人の言葉が話せる、お経が読める、犬塚(墓)は本堂の丑寅(北東)にある、などの記載がある。
近年になって「道中日記」(大阪府池田市・吉野家所蔵)という古文書が見つかった。文政9(1826)年に大和を訪ねたときの記述に「達磨寺には聖徳太子が愛した雪丸の石像がある」と書かれていたのだ。雪丸は平成25年8月に町の観光・広報大使となりニュースで紹介された。それを見ていたご親族が知らせてくれ、石像が江戸時代からあったことが証明されたのだ。
と、ここまでは王寺町の『やさしく読める王寺町の歴史』(岡島永昌著)の受け売りである。
最近になって著者の岡島さん(王寺町教育委員会学芸員)のお話を聞く機会があった。岡島さんによると、雪丸の話はもう少しさかのぼれるという。
慶長12(1607)年に著された『太子伝撰集抄別要』に、太子が9歳のときの話が出てくる。「太子の宮に『白雪丸』という白い犬がいました。犬の母も『白梅』の名前で飼われていました。太子は白雪丸に奉行(役人)をつけて毎日食べ物を与えていました」。
「あるとき犬が少し痩せ、何かを訴えるように前足を折り曲げてかしこまりました。太子は奉行が食べ物を盗んでいるのだなと気づきましたが、証拠がありません。そこで太子は『学架(博士)のところへ行って訴状を書いてもらいなさい』と命じました。白雪丸は学架に訴状を書いてもらい、それを太子に届けました。訴状を読んだ太子が奉行を呼んで注意したところ、その後食べ物を盗まれることはなくなったそうです」。
犬のエサを盗み食いするとは、情けない奉行がいたものだが、この話には続きがある。本書によると白雪丸が死んだあと墓を築き、その上に松を1本植えた。そこが郡山の「犬臥の岡」だというのだ。昭和初期の「奈良縣郡山町全図」には、今の大和郡山市・新城(にき)神社の近くに「聖徳太子犬塚」が載る。
地元民の話では、地図の場所から少し離れた金魚池のほとりの盛り土の上に老木が生えていて「父から、ここが聖徳太子の犬の墓だと聞いています」。雪丸の墓は、達磨寺からここに移されたのだろうか。
達磨寺では毎土日祝日、王寺観光ボランティアガイドの会がガイドをしてくれる。ぜひ参拝され、「雪丸伝承」に思いをはせていただきたい。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)
明神山からの眺望(制作:王寺観光ボランティアガイドの会)
このゴールデンウィーク中の土日祝日も、王寺観光ボランティアガイドの会のメンバーが達磨寺をガイドしてくれます。明神山からの眺望も素晴らしいです。皆さん、ぜひ王寺町をお訪ねください!
王寺町の雪丸をご存じだろうか。聖徳太子の愛犬とされ、同町の達磨寺(だるまじ)には、江戸時代の石像がまつられている。雪丸は平成25年6月に町の公式マスコットに認定、同年8月には町の観光・広報大使に就任した。県内のゆるキャラの中でも傑出した存在である。
さらに29年には空を飛ぶ「雪丸ドローン」が登場し、度肝を抜いた。動画(実写)は特設サイトで公開されている。今年は戌(いぬ)年なので、いっそ「雪丸そっくり犬コンテスト」でもやって、王寺町を盛り上げてほしいものだ。
この雪丸、単なるゆるキャラではない。聖徳太子信仰とともに語り継がれる由緒正しい名犬なのである。達磨寺は聖徳太子ゆかりの寺だ。寺には明治5年頃に書き写されたとみられる「達磨寺略記」がある。そこには、雪丸は聖徳太子が飼っていた犬で、人の言葉が話せる、お経が読める、犬塚(墓)は本堂の丑寅(北東)にある、などの記載がある。
近年になって「道中日記」(大阪府池田市・吉野家所蔵)という古文書が見つかった。文政9(1826)年に大和を訪ねたときの記述に「達磨寺には聖徳太子が愛した雪丸の石像がある」と書かれていたのだ。雪丸は平成25年8月に町の観光・広報大使となりニュースで紹介された。それを見ていたご親族が知らせてくれ、石像が江戸時代からあったことが証明されたのだ。
と、ここまでは王寺町の『やさしく読める王寺町の歴史』(岡島永昌著)の受け売りである。
最近になって著者の岡島さん(王寺町教育委員会学芸員)のお話を聞く機会があった。岡島さんによると、雪丸の話はもう少しさかのぼれるという。
慶長12(1607)年に著された『太子伝撰集抄別要』に、太子が9歳のときの話が出てくる。「太子の宮に『白雪丸』という白い犬がいました。犬の母も『白梅』の名前で飼われていました。太子は白雪丸に奉行(役人)をつけて毎日食べ物を与えていました」。
「あるとき犬が少し痩せ、何かを訴えるように前足を折り曲げてかしこまりました。太子は奉行が食べ物を盗んでいるのだなと気づきましたが、証拠がありません。そこで太子は『学架(博士)のところへ行って訴状を書いてもらいなさい』と命じました。白雪丸は学架に訴状を書いてもらい、それを太子に届けました。訴状を読んだ太子が奉行を呼んで注意したところ、その後食べ物を盗まれることはなくなったそうです」。
犬のエサを盗み食いするとは、情けない奉行がいたものだが、この話には続きがある。本書によると白雪丸が死んだあと墓を築き、その上に松を1本植えた。そこが郡山の「犬臥の岡」だというのだ。昭和初期の「奈良縣郡山町全図」には、今の大和郡山市・新城(にき)神社の近くに「聖徳太子犬塚」が載る。
地元民の話では、地図の場所から少し離れた金魚池のほとりの盛り土の上に老木が生えていて「父から、ここが聖徳太子の犬の墓だと聞いています」。雪丸の墓は、達磨寺からここに移されたのだろうか。
達磨寺では毎土日祝日、王寺観光ボランティアガイドの会がガイドをしてくれる。ぜひ参拝され、「雪丸伝承」に思いをはせていただきたい。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)
明神山からの眺望(制作:王寺観光ボランティアガイドの会)
このゴールデンウィーク中の土日祝日も、王寺観光ボランティアガイドの会のメンバーが達磨寺をガイドしてくれます。明神山からの眺望も素晴らしいです。皆さん、ぜひ王寺町をお訪ねください!
