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大滝ダムと『大滝ダム誌』

2018年08月02日 | 日々是雑感
西日本豪雨に続いて台風12号が上陸し、近畿、中国、四国地方に甚大な被害をもたらしました。被災された皆さま、ご家族の皆さまには、心よりお見舞い申し上げますとともに、一日も早い復興をお祈り申し上げます。

かつて紀ノ川・吉野川流域に未曽有の被害をもたらしたのは、1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風だった。このあと、洪水調節機能を有したダム建設を強く求める声が上がり、計画されたのが「大滝ダム」(吉野郡川上村)である。このダムは53年もの年月をかけて2013年(平成25年)に完成した。

そして本年5月には『大滝ダム誌』が出来上がった。同村の広報誌『広報かわかみ』2018年7月号の「頑張ります!栗山です」欄に、栗山忠昭村長が、こんな文章を寄せていた。全文を紹介すると、

このほど、平成25年から5年間をかけて編纂してきた『大滝ダム誌』が完成しました。ダム建設に要した53年もの年月を思うと、非常に感慨深いものがあります。ダム建設の“苦難の連続と重い決断”の歴史をつづった本誌は、単なる記録でも、過去の事象に批判や批評を加えるものでもなく、大きな犠牲を払って造られた大滝ダムの持つ役割と、村の存在意義を伝えることを目的に編纂されたものです。

執筆にあたっては、ダム事業を熟知し中心的な役割を担った人がほとんど他界されている中、困難を極める作業となりました。当時の会議録や公文書等々をもとに「どのような歩みであったか」また「どのように判断や決断に至ったのか」を記し、経緯と事実を積み重ねて慎重に正確に編纂を進めていきました。

物事は、歴史と経緯をしっかり踏まえてこそ、未来へつなげることが出来、新たな進歩があるものと私は考えています。ダムの歴史は人、ひいては川上村そのものの歴史であり、川上村の人たちが「協力して良かったと本当に思えること」が肝心です。そのためにも国は大滝ダムを未来永劫かがやかせる使命と責任があると考えています。

そして、我々は水源地の村として“ダムとともに誇りをもって生きる覚悟”が大事であると認識しています。この『大滝ダム誌』を今後の村づくりに役立て、ダムの歴史が紡ぐつながりを大切にして、引き続き水源地の村づくりを推進していきます。


『大滝ダム誌』が完成した本年5月には、新聞各紙がこれを紹介した。奈良新聞(5/19付)《“覚悟と思い”形に「大滝ダム誌」刊行 川上村》によると、

吉野川・紀ノ川水系の治水や利水を目的に建設され、近畿最大の総貯水量を誇る「大滝ダム」がある川上村は18日、竣工(しゅんこう)から5年の節目を迎えた同ダム建設の歴史をたどる「大滝ダム誌」(A4判、270ページ)を刊行したと発表した。完成まで半世紀を要した国の巨大公共事業に揺れ続けた村の姿を、会議録や公文書を元に書き起こした。栗山忠昭村長は「長い苦難と闘いの中でダムを受け入れ、大きな覚悟を持って『水源地の村』として生きるまでの思いに心を寄せてほしい」としている。

大滝ダムは昭和34年の伊勢湾台風による吉野川・紀ノ川水系の洪水被害を受け、翌35年に着工。63年に本体工事に着手して、平成25年に完成。水没地区の移転補償費を含む総事業費は3640億円に上った。ダム誌は、村水源地課内に設置した「大滝ダム誌編纂(へんさん)室」の職員が中心となり、村や関係機関の会議録、公文書など段ボール約30箱分の文書を調査して、5年がかりで作成した。ただ、聞き取り調査は当時の関係者の多くが他界しており、ほほできなかったという。

ダム誌では、昭和38年に「建設反対」を表明した村が、県と協議を重ねる中で、41年に「建設受け入れ」の覚書を締結するまでの経緯を記載。当時の住川逸郎村長が広報紙に寄せたコラムや建設省(現・国土交通省)や県に反対運動を展開する住民の様子が掲載されている。

ダム建設を巡っては水没で399世帯、国道付け替えなどの工事で94世帯、平成15年の白屋地区の地すべりで37世帯、計530世帯が移転を強いられた。水没状況のほか、村外移転や村内での宅地造成など生活再建に向けた動きを各地区ごとにまとめている。

最終章では、大滝・大迫両ダムを活用する重要性を指摘。水源地の村として、山や水を守ることなど村の方向性を打ち出した「川上宣言」や、ダム建設から生まれた流域地域との交流について紹介している。ダム誌は計1500部を発行。同日から水没で移転した人や家族、村民と関係機関に配布するほか、県内の公立図書館にも寄贈する。一般販売は行われない。問い合わせは村水源地課で電話0746-52-0111。


私も『大滝ダム誌』を目にする機会があった。これは労作である。同誌には、ダムの「建設受け入れ」の覚書を締結した昭和41年3月31日の前日、当時の村長・住川逸郎氏が認(したた)めた「村民の皆さんへ」という文章が載っている。一部を抜粋する。

わたくしは、もともと、この問題はゼロか百かと考えており、姿勢、それも基本姿勢としては、今でも反対という姿を崩さないし、今後もそれで良いものだと信じています。けれども、また、この問題は、単に、理事者の考え方や、村議会の議決だけで、うまく運ぶ問題ではなく、直接村民のみなさん、とくに水没を予定される方々の動向によって、最終的に決定されてしまう問題でありますところに、困難が横たわっているのでありまして、基本態度一本で押し切れない弱さをもっているのであります。

絶対反対から条件闘争へ(わたくしは、この言葉をいまだに好みませんが)、これが、ダム築造の過程であるように見うけられるのであります。村にとって利益のない事業に賛成するわけにはまいりませんが、村民自体の側に、若(も)し反対の線が、たとえ一角にもせよ崩れ落ちて、それを拠点にして、いわゆる、施行者側との妥協ムードができあがる過程を眺めつつ、これではいけない、これでは、条件らしいものを何ひとつ闘い取ることのできないうちに、ダムができあがるんじやないか、という惧(おそれ)が感じとれ出す。これが、理事者として裁断をおろす「時」を決定する重要なポイントになるものと考えます。

わたくしは、既に、その「時」が来ていると考えており、今まで度々、広報でも取りあげてまいりました。よく世の中でも言われますように、最後まで行きつかないうちに、お互いに、なお話し合いに気持よく応じ合えるうちに話し合った方が、平たく言えば得策だと思うのです。そう
することによって、権利を正しく主張することのできる、共通の土俵にのぼろうと思うのです。それも、明快に、そして着実に。

どうか誤解しないでください。この村と村民を無条件に放置しようとしているのではありません。今こそ重大決意をして、施工者側と気持ちよく話し合いに応じます。そのかわり、主張すべきは主張しましょう。ただそれだけです。村民のみなさんの心からなる理解と協力を期待いたします。


苦渋の決断だったのである。現川上村長・栗山忠昭氏は、『大滝ダム誌』の「発刊に際して」で、このように述べている。一部を抜粋する。

大滝ダム建設事業には53年の時間を要しました。その歴史は、深く、長い道のりでした。そして未だ、すべてが終わったと言い切れない状況であることも事実です。

伊勢湾台風が村を直撃した昭和34年、私は小学校3年生でした。その恐ろしい経験はいまも脳裏に焼きついています。大滝ダムは、その伊勢湾台風がもたらせた未曾有の災害によって、必然的に求められたと思われるのですが、当時の住川村長と近畿地方建設局長以下の職員及び両県の職員の方々が説明に来られたときのやりとりを見ると、大滝ダム建設の動機について住川村長が糾(ただ)されている部分があり、大滝ダム以外の選択の余地がなかったのか、そのことも含めて、多くの村民の心を揺るがせた中で、大滝ダムを受け入れるに至ったのでした。

そして、ダムを受け入れた川上村が、長い苦難とダムとの闘いのなかで、苦心の末に大きな覚悟を持って「水源地の村づくり」を決意したのは、いまから25年も前のことでした。そのことがいま、国や県、流域の方々からも高い評価を受けています。

大滝ダムも、所期の目的である「治水・利水」について、その目的を十分に達成し、奈良県のくらしの水や洪水調節の効果について、吉野川流域、紀の川流域からこれも高い評価を受けています。今後も、大迫、大滝両ダムと水源地である川上村の緑のダム(天然林、人工林の森林)の価値が、ますます高まっていくこと、より具体的なそして新たな評価がなされることが期待されています。

半世紀もの歴史を要し、川上村のすべてを呑み込んだ「大滝ダム」は、近い将来、日本の河川行政の粋を物語る文化財、土木遺産として、水源地の村で堂々と輝きを放つようになるでしょう。そのためにも、村は「水源地の村づくり」をしっかりと推進することを宣言します。国も県も大きな役割、責任を全うされることを期待します。


大滝ダムの完成で、流域の住民が受ける恩恵は計り知れない。しかしその陰で村民530世帯は、住み慣れた我が家の移転を強いられたのである。『大滝ダム誌』のおかげで、私たちはダム完成に至る影のご苦労をしのぶことができる。本誌の内容は、末永く語り継がねばならない。





コメント (7)
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