金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は以前、『霊山へ行こう』という対談本を準備されながら、上梓されなかった。利典師はその原稿(自らの発言)に大幅に加筆され、Facebookに17回にわたり連載された(2023.1.21~2.10)。心に響く良いお話ばかりなので、当ブログでも紹介させていただいている。
※トップ写真は大和郡山市・椿寿庵のツバキ(2010.2.6 撮影)
第9回のタイトルは「霊魂はないという坊主」。近代合理主義の悪弊か、最近は「霊魂はない」というお坊さんがいる。霊魂とまでは言わなくても、「弔われる対象物」がないのなら、なぜお坊さんは拝むのか、何を弔うのか。今回、利典師は相当怒っている。「近代と戦う修験僧」の面目躍如である。では全文を師のFacebook(1/31付)から抜粋する。
シリーズ「山人vs楽女/霊魂はないという坊主」⑨
著作振り返りシリーズの第6弾は、諸般の事情で上梓されなかった対談書籍の下書きの、私の発言部分を大幅に加筆してみました。今日はかなり吠えています(笑)みなさまのご感想をお待ちしております。
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「霊魂はないという坊主」
生きてる人に法を説いて、その生きてる「生の苦しみ」をお葬式の場で説くことに意義があるのだ、というお坊さんが多い。それはそれで確かに大事なことです。
私はお葬式には二つの意味合いがあると思っています。人が死ぬ、という機会に接するのは宗教的な気持ちを抑揚させる絶好の機会ですから、人生の無常であるとか、はかなさとか、あるいは仏の冥加(仏恩)とかを身近にして、その時に仏法を説き聞かせるのは大事なことだと思います。
でもなにより大事なのは、葬式は死んだ人を弔う気持ちがあるからやるわけで、霊魂という弔う対象に向き合うのが第一であり、そこを説かなければ、何を弔うんだということになります。いわゆる霊魂の問題です。
霊魂はないというお坊さんがいますが、では霊魂がないのなら、お浄土は誰が行くんだというのでしょうか。お釈迦さんは確かに常住不変のものはないとおっしゃった。だから霊魂が常住不変である必要はないんですけど、やはりなにかないと話にならない。
お釈迦さんも霊魂がないとはじつはおっしゃっていない。無記ということで、答えておられないだけであって、霊魂があるかないかに執らわれるを戒める意味で、無記になさっただけなのだと私は思っています。だから霊魂があることを前提に葬式をすることが、仏教の教えの上でそんなにおかしなことではないと私は思います。
第一、輪廻転生するのは、何が輪廻転生するんだというのでしょうか。阿頼耶識(あらやしき)とか、第七識とか、末那識(まなしき)とかわけのわからんことをアビダルマ仏教(小乗仏教)では立てますが、やっぱり霊魂に想定されるような輪廻転生するなにか、主体があるわけですから、それを霊魂と呼ぼうが、末那識と呼ぼうと、一般の人にとっては同じことです。
その霊魂を成仏させてよいところにいくように祈って、死んだ人を弔うわけでしょう。なのに、近代合理主義の論理では、いわゆるバカの壁に阻まれて、お坊さんまで平気で霊魂はないなどと平気で言う輩が出てきている。檀家制度が危うくなっているとかなんとかいうけれど、檀家制度を壊すのはそういう近代合理主義でこちこちになった坊さんの頭なのではないかと心配しています。霊魂を否定しているような坊主に拝んでもらったって意味ないですから。
お経が効くかどうかは別として、弔う側の代表者としてお経を上げて、死者がよいところに行きましょう、この世に未練を残さずに、死んだ理由はいろいろあったかも知れないけど、ともかくよいところへ行って下さい。後は家族がちゃんと守りますから…と、そういう気持ちを代表して心を込めて、お坊さんがお経を上げるから、引導を渡すから、お葬式として成り立っているわけで、坊さんがそこをなくしている話は論外なのです。
実は、霊魂にこだわるのではなく、霊魂でも何でもいいんですけど、それこそ霊魂はあると言おうがないと言おうがどちらでもいいのです。ともかくそういうものがあることが前提でしか、葬式は成り立たないわけなのです。そのあとなんですよ、いろいろと法を説くというのは。
法を説くことももちろん大事。死をきっかけに、遺族に対して、お坊さんが法を説いていることを亡者に見せてあげることも大事。私はみえないですけど、お通夜の席などにたまさか呼ばれてお経をあげたあと、私は通夜法話の中で、天井のななめ上くらいを指さして、亡くなった人は今この辺にいますよというんです。
自分が死んだことで家族が悲しんでいるのを上から見ているんだと。そういうことを前提で、お葬式をしなさいということなんです。そこにおられるということを前提にお給仕をしなさいというんです。それを私はなにより大事にしています。
それを否定しておいて坊さんが葬式に行くのはいわば詐欺みたいなものですよ。そんなことをするからどんどん今の人たちの葬式離れ、お寺離れが進んでしまうんですよ。
お墓だって、実は骨を埋める場所では本来ないのです。あそこは弔いの場、お祀りの場なのです。あそこで弔うのは、その弔う対象が骨であっても、霊魂であっても、位牌であっても石であってもいいんです。お墓で弔うことで、弔われるものが鎮まるっていうことが前提でないといけない。そしてやはり弔われるなにかが前提となっていないと、弔う心、お祀りする心が生まれてこない。
まさに神や仏に対する信仰をなくして、一神教の世界が作り上げた近代合理主義の上澄みだけの脆弱な価値観に洗脳されているとしか、いまの日本人は思えないわけです。一神教的な信仰は持ったこともないのに…。
なんやかんやいいながら、ヨーロッパやアメリカはキリスト教というきちっとした宗教基盤に立った価値観があります。アメリカの大統領は聖書に手を置いて核のボタンを押すわけでしょ。神のご加護を念じて宣誓するわけです。彼らはそれを前提に近代合理主義を生み出したのですけど、日本人はその前提が違うのに、その上澄みだけ真似をして、モノと金だけを崇めてきたからこんな野卑な社会を生み続けているのだと私には思えてなりません。
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この対談当時から、なんか私は怒ってましたね(笑)
※トップ写真は大和郡山市・椿寿庵のツバキ(2010.2.6 撮影)
第9回のタイトルは「霊魂はないという坊主」。近代合理主義の悪弊か、最近は「霊魂はない」というお坊さんがいる。霊魂とまでは言わなくても、「弔われる対象物」がないのなら、なぜお坊さんは拝むのか、何を弔うのか。今回、利典師は相当怒っている。「近代と戦う修験僧」の面目躍如である。では全文を師のFacebook(1/31付)から抜粋する。
シリーズ「山人vs楽女/霊魂はないという坊主」⑨
著作振り返りシリーズの第6弾は、諸般の事情で上梓されなかった対談書籍の下書きの、私の発言部分を大幅に加筆してみました。今日はかなり吠えています(笑)みなさまのご感想をお待ちしております。
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「霊魂はないという坊主」
生きてる人に法を説いて、その生きてる「生の苦しみ」をお葬式の場で説くことに意義があるのだ、というお坊さんが多い。それはそれで確かに大事なことです。
私はお葬式には二つの意味合いがあると思っています。人が死ぬ、という機会に接するのは宗教的な気持ちを抑揚させる絶好の機会ですから、人生の無常であるとか、はかなさとか、あるいは仏の冥加(仏恩)とかを身近にして、その時に仏法を説き聞かせるのは大事なことだと思います。
でもなにより大事なのは、葬式は死んだ人を弔う気持ちがあるからやるわけで、霊魂という弔う対象に向き合うのが第一であり、そこを説かなければ、何を弔うんだということになります。いわゆる霊魂の問題です。
霊魂はないというお坊さんがいますが、では霊魂がないのなら、お浄土は誰が行くんだというのでしょうか。お釈迦さんは確かに常住不変のものはないとおっしゃった。だから霊魂が常住不変である必要はないんですけど、やはりなにかないと話にならない。
お釈迦さんも霊魂がないとはじつはおっしゃっていない。無記ということで、答えておられないだけであって、霊魂があるかないかに執らわれるを戒める意味で、無記になさっただけなのだと私は思っています。だから霊魂があることを前提に葬式をすることが、仏教の教えの上でそんなにおかしなことではないと私は思います。
第一、輪廻転生するのは、何が輪廻転生するんだというのでしょうか。阿頼耶識(あらやしき)とか、第七識とか、末那識(まなしき)とかわけのわからんことをアビダルマ仏教(小乗仏教)では立てますが、やっぱり霊魂に想定されるような輪廻転生するなにか、主体があるわけですから、それを霊魂と呼ぼうが、末那識と呼ぼうと、一般の人にとっては同じことです。
その霊魂を成仏させてよいところにいくように祈って、死んだ人を弔うわけでしょう。なのに、近代合理主義の論理では、いわゆるバカの壁に阻まれて、お坊さんまで平気で霊魂はないなどと平気で言う輩が出てきている。檀家制度が危うくなっているとかなんとかいうけれど、檀家制度を壊すのはそういう近代合理主義でこちこちになった坊さんの頭なのではないかと心配しています。霊魂を否定しているような坊主に拝んでもらったって意味ないですから。
お経が効くかどうかは別として、弔う側の代表者としてお経を上げて、死者がよいところに行きましょう、この世に未練を残さずに、死んだ理由はいろいろあったかも知れないけど、ともかくよいところへ行って下さい。後は家族がちゃんと守りますから…と、そういう気持ちを代表して心を込めて、お坊さんがお経を上げるから、引導を渡すから、お葬式として成り立っているわけで、坊さんがそこをなくしている話は論外なのです。
実は、霊魂にこだわるのではなく、霊魂でも何でもいいんですけど、それこそ霊魂はあると言おうがないと言おうがどちらでもいいのです。ともかくそういうものがあることが前提でしか、葬式は成り立たないわけなのです。そのあとなんですよ、いろいろと法を説くというのは。
法を説くことももちろん大事。死をきっかけに、遺族に対して、お坊さんが法を説いていることを亡者に見せてあげることも大事。私はみえないですけど、お通夜の席などにたまさか呼ばれてお経をあげたあと、私は通夜法話の中で、天井のななめ上くらいを指さして、亡くなった人は今この辺にいますよというんです。
自分が死んだことで家族が悲しんでいるのを上から見ているんだと。そういうことを前提で、お葬式をしなさいということなんです。そこにおられるということを前提にお給仕をしなさいというんです。それを私はなにより大事にしています。
それを否定しておいて坊さんが葬式に行くのはいわば詐欺みたいなものですよ。そんなことをするからどんどん今の人たちの葬式離れ、お寺離れが進んでしまうんですよ。
お墓だって、実は骨を埋める場所では本来ないのです。あそこは弔いの場、お祀りの場なのです。あそこで弔うのは、その弔う対象が骨であっても、霊魂であっても、位牌であっても石であってもいいんです。お墓で弔うことで、弔われるものが鎮まるっていうことが前提でないといけない。そしてやはり弔われるなにかが前提となっていないと、弔う心、お祀りする心が生まれてこない。
まさに神や仏に対する信仰をなくして、一神教の世界が作り上げた近代合理主義の上澄みだけの脆弱な価値観に洗脳されているとしか、いまの日本人は思えないわけです。一神教的な信仰は持ったこともないのに…。
なんやかんやいいながら、ヨーロッパやアメリカはキリスト教というきちっとした宗教基盤に立った価値観があります。アメリカの大統領は聖書に手を置いて核のボタンを押すわけでしょ。神のご加護を念じて宣誓するわけです。彼らはそれを前提に近代合理主義を生み出したのですけど、日本人はその前提が違うのに、その上澄みだけ真似をして、モノと金だけを崇めてきたからこんな野卑な社会を生み続けているのだと私には思えてなりません。
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この対談当時から、なんか私は怒ってましたね(笑)