金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は以前、『霊山へ行こう』という対談本を準備されながら、上梓されなかった。利典師はその原稿(自らの発言)に大幅に加筆され、Facebookに17回にわたり連載された(2023.1.21~2.10)。心に響く良いお話ばかりなので、当ブログでも紹介させていただいている。
※トップ写真は大和郡山市・椿寿庵のツバキ(2010.2.6 撮影)
第12回のタイトルは「宗教は必要でしょ」。人間は〈自分の生まれる前のことも心配するし、明日のこと、将来のこと、訳わからない先のことも心配する〉、しかし犬や猫はそんなことは心配しない。人間は〈自分を省みたとき、こんなに不確かなで頼りない存在はない〉。
〈人間として生まれた以上はこんなに儚い存在であるから、それを自覚する以上は自分を超えたものとの出会いを持たない限り、人間として非常に生きにくい〉、そこで宗教が必要になるのである。では、師のFacebook(2/3付)から、全文を抜粋する。
シリーズ「山人vs楽女/宗教は必要でしょ」⑫
著作振り返りシリーズの第6弾は、実は校了まで行きながら上梓されなかった対談書籍の下書きの、私の発言部分を大幅に加筆してみました。内容はなかなか面白い。みなさまのご感想をお待ちしております。
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「宗教は必要でしょ」
私は少し前に「役行者霊蹟札所会」設立を発願して、皆さんの力で発足させたのですが、霊場会設立のはじめに際して、各参加寺院のみなさまに「霊場巡りによって寺の経営に資する所がありますから」という謳い文句を掲げました。
ですが、本心はそんなことはどうでもええことで、「敷居が高くなっているお寺にこういった霊場会活動を通じて敷居を低くしてもらう」ってのが、一番の狙いだったのです。
まして役行者なんて誰も知らないわけですから、霊場会を広く告知することで役行者自体を知ってもらう機会にする。またお寺自体でも自分のところの役行者を大事にしてもらう。そういう意図をもって設立の活動をしたのです。ともかくたくさんの方に、信仰の世界を身近にしてもらうことが大切なのです。
ま、寺の中にはさきほどのお話しのように、折角おいでになった参拝のかたに悪い思いを抱かせるようなところもあるでしょうから、何かの縁で、仏縁が出来れば、あるいは次につながるしのだし、なにもしないよりはいいわけで、という思いでした。
ともかく社会性をもって、お寺が常に世の中と縁を結んでいかなければ、何も生まれませんからねえ。そういう活動で寺も変わっていくし、人も変わっていく。そういうことが大事な気がして頑張りましたね。
人間てやっかいな存在で、自分の生まれる前のことも心配するし、明日のこと、将来のこと、訳わからない先のことも心配する。さらに、宇宙のことも心配するし、海底のことも心配するし、よその国や知らない人のことまでも心配する。犬や猫はそんな心配しませんからね。
人間てのはそんな存在です。でも、そんなことをいろいろ考える割には、自分を省みたとき、こんなに不確かなで頼りない存在はないわけで、そういう不確かなことも自分で自覚できるわけでしょ。そうするとどこかで自分を超えたものと出会っていないと、人間ほど危うい存在ないわけです。
だから、私は人によく言うのですが、宗教が人間にとって大事か否かを聞くのは愚問だと。人間として生まれた以上はこんなに儚い存在であるから、それを自覚する以上は自分を超えたものとの出会いを持たない限り、人間として非常に生きにくい。犬や猫が心配しないことを人間様は心配するわけですからね。心配した先には不確かな自分を抱きしめるしかない。
そうしたときに自分を超えたものとつながっていくことでようやくバランスがとれるわけです。自分を超えたものと繋がることが「宗教」だと私は思っていますから、宗教と出会ったときに初めて人間が人間として生きはじめるのだという話。
犬や猫の如く生きていたらいつまでたっても犬や猫のままです。まあ、犬や猫のほうが人間よりはるかに素晴らしいこともあるとは思いますが、せっかく人間としてこの世に生まれて来たのですから、人間らしく行きたいと私は思うわけで…。
なので、宗教がいるかいらないか、必要か不必要かっていう問題以前に、宗教に出会った時に初めて、真の人間としての生き方がはじまるのではないと私は思っています。これは難しい宗教論でもなんでもなくて、実際に、ふつうに生きていたらそういうふうに思うものだと思いますけどね。
いまの社会は野蛮でしょ。犬や猫みたいでしょ。いや犬猫以下かもしれない。平気で人を殺すし、仲間も裏切る。こんな野蛮なことはないですよ。
近頃ほんとにだんだん野蛮になっていって、もう人間って最低と思ってしまうくらいです。これは今の日本社会が宗教というか、信心の世界、安心(あんじん=信仰により到達する心の安らぎ)の世界をなくしたことが大きな原因ではないでしょうか。神も仏もなくしたからなんですよ。
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宗教はいるに決まってますよ。いまもその信念は変わりません。
※トップ写真は大和郡山市・椿寿庵のツバキ(2010.2.6 撮影)
第12回のタイトルは「宗教は必要でしょ」。人間は〈自分の生まれる前のことも心配するし、明日のこと、将来のこと、訳わからない先のことも心配する〉、しかし犬や猫はそんなことは心配しない。人間は〈自分を省みたとき、こんなに不確かなで頼りない存在はない〉。
〈人間として生まれた以上はこんなに儚い存在であるから、それを自覚する以上は自分を超えたものとの出会いを持たない限り、人間として非常に生きにくい〉、そこで宗教が必要になるのである。では、師のFacebook(2/3付)から、全文を抜粋する。
シリーズ「山人vs楽女/宗教は必要でしょ」⑫
著作振り返りシリーズの第6弾は、実は校了まで行きながら上梓されなかった対談書籍の下書きの、私の発言部分を大幅に加筆してみました。内容はなかなか面白い。みなさまのご感想をお待ちしております。
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「宗教は必要でしょ」
私は少し前に「役行者霊蹟札所会」設立を発願して、皆さんの力で発足させたのですが、霊場会設立のはじめに際して、各参加寺院のみなさまに「霊場巡りによって寺の経営に資する所がありますから」という謳い文句を掲げました。
ですが、本心はそんなことはどうでもええことで、「敷居が高くなっているお寺にこういった霊場会活動を通じて敷居を低くしてもらう」ってのが、一番の狙いだったのです。
まして役行者なんて誰も知らないわけですから、霊場会を広く告知することで役行者自体を知ってもらう機会にする。またお寺自体でも自分のところの役行者を大事にしてもらう。そういう意図をもって設立の活動をしたのです。ともかくたくさんの方に、信仰の世界を身近にしてもらうことが大切なのです。
ま、寺の中にはさきほどのお話しのように、折角おいでになった参拝のかたに悪い思いを抱かせるようなところもあるでしょうから、何かの縁で、仏縁が出来れば、あるいは次につながるしのだし、なにもしないよりはいいわけで、という思いでした。
ともかく社会性をもって、お寺が常に世の中と縁を結んでいかなければ、何も生まれませんからねえ。そういう活動で寺も変わっていくし、人も変わっていく。そういうことが大事な気がして頑張りましたね。
人間てやっかいな存在で、自分の生まれる前のことも心配するし、明日のこと、将来のこと、訳わからない先のことも心配する。さらに、宇宙のことも心配するし、海底のことも心配するし、よその国や知らない人のことまでも心配する。犬や猫はそんな心配しませんからね。
人間てのはそんな存在です。でも、そんなことをいろいろ考える割には、自分を省みたとき、こんなに不確かなで頼りない存在はないわけで、そういう不確かなことも自分で自覚できるわけでしょ。そうするとどこかで自分を超えたものと出会っていないと、人間ほど危うい存在ないわけです。
だから、私は人によく言うのですが、宗教が人間にとって大事か否かを聞くのは愚問だと。人間として生まれた以上はこんなに儚い存在であるから、それを自覚する以上は自分を超えたものとの出会いを持たない限り、人間として非常に生きにくい。犬や猫が心配しないことを人間様は心配するわけですからね。心配した先には不確かな自分を抱きしめるしかない。
そうしたときに自分を超えたものとつながっていくことでようやくバランスがとれるわけです。自分を超えたものと繋がることが「宗教」だと私は思っていますから、宗教と出会ったときに初めて人間が人間として生きはじめるのだという話。
犬や猫の如く生きていたらいつまでたっても犬や猫のままです。まあ、犬や猫のほうが人間よりはるかに素晴らしいこともあるとは思いますが、せっかく人間としてこの世に生まれて来たのですから、人間らしく行きたいと私は思うわけで…。
なので、宗教がいるかいらないか、必要か不必要かっていう問題以前に、宗教に出会った時に初めて、真の人間としての生き方がはじまるのではないと私は思っています。これは難しい宗教論でもなんでもなくて、実際に、ふつうに生きていたらそういうふうに思うものだと思いますけどね。
いまの社会は野蛮でしょ。犬や猫みたいでしょ。いや犬猫以下かもしれない。平気で人を殺すし、仲間も裏切る。こんな野蛮なことはないですよ。
近頃ほんとにだんだん野蛮になっていって、もう人間って最低と思ってしまうくらいです。これは今の日本社会が宗教というか、信心の世界、安心(あんじん=信仰により到達する心の安らぎ)の世界をなくしたことが大きな原因ではないでしょうか。神も仏もなくしたからなんですよ。
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宗教はいるに決まってますよ。いまもその信念は変わりません。