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田中利典師の『霊山へ行こう』(14)山はすでに悟っているから、そこに入る人が悟りを得られる

2023年03月12日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は以前、『霊山へ行こう』という対談本を準備されながら、上梓されなかった。利典師はその原稿(自らの発言)に大幅に加筆され、Facebookに17回にわたり連載された(2023.1.21~2.10)。心に響く良いお話ばかりなので、当ブログで紹介させていただいている。
※トップ写真は大和郡山市・椿寿庵のツバキ(2010.2.6 撮影)

第14回のタイトルは「山の修行は親切である」。これだけでは意味が分かりにくいが、言い換えると「自然はすでに悟っているということが前提で、自然界はすでに悟っているから、悟ろうとする我々が山に入って修行をすることで悟れるんだ、そう思うとわかりやすい。とてもわかりやすい。だから悟っている山に入ると、いろいろと神仏から教えられるし、学んでくることができる」。つまり山はそれ自体で「完成」しているのだ。では、師のFacebook(2/6付)から、全文を紹介する。

シリーズ「山人vs楽女/山の修行は親切である」⑭
著作振り返りシリーズの第6弾は、実は校了まで行きながら上梓されなかった対談書籍の下書きの、私の発言部分を大幅に加筆してみました。内容はなかなか面白い。みなさまのご感想をお待ちしております。

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「山の修行は親切である」
山の修行は、それは苦しいものではありますが、考えようによっては、とても親切なもので、大きい志を持った人には大きいものを与えてくれるし、小さい志の人にはそれなりのものをくれるし、その年の状況によって(天気が良かったり嵐だったり、事故が起こったり…)、あるいは自分の有り様によって、さまざまなものを与えてくれます。なんにも与えられなかったと思ったら、与えられなかったことをわかったことが実は大きな気づきだったりする。

盟友の宗教学者正木晃さんと話していて教えられたのですが、修験道でいうところの自然っていうのはすでに悟っているのです。修験の教学で「本覚山伏」と「始覚山伏」という言葉があるのですが、本覚はもともと悟っている、始覚は悟りを始める…。始覚の山伏が山に入って修行して本覚の山伏になる。

これはたいそう難しい教義的な理屈ですが、自然はすでに悟っているということが前提で、自然界はすでに悟っているから、悟ろうとする我々が山に入って修行をすることで悟れるんだ、そう思うとわかりやすい。とてもわかりやすい。だから悟っている山に入ると、いろいろと神仏から教えられるし、学んでくることができる。

山は覚体(悟りそのもの)だとか法体(ご神体)だとか、理屈では言いますが、実際に行じてみると、そのとおりなんだと感じますね。だから山には神仏がいるんだという前提で歩く、ということにつながるのです。こういうことは体験者でないとよくわかりません。

自然と隔絶して生きる都会の人にそのことをわからせるのは難しいですね。いまはみんなが近代合理主義の論理の世界で生きてるし。加えて、お金やモノが、神さまや仏さまに成り代わって有り難がたがられ、拝まれているような状況ですからね。お金やモノが、神さまや仏さまではないのだってことを知らしめるよい方法はないでしょうか。

日本人は決して無宗教や無信心ではなく、宗教性は極めて豊かなので、心の底にはそういう欲求があるはずだと私は思うのですけどねえ。それをお坊さんの側でさえ一神教の真似をして、霊魂はないだの、御利益はだめだのと妙な理屈を振りかざすから、これがいけない。そんな理屈の話はみんな聞きたくないのですよ。

それより側隠(そくいん)の情で、生きる苦しみに喘ぐそばで、やさしくこたえてもらえるようなものを、みんなは求めていると私は思いますよ。「お前、答えているのか」って聞かれると、困りますけどね。「お行にいけばわかる」っていう以外はないのかも。そういえるのが山伏であることのよさなのかもしれません。

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山の修行は行ったものでないとわからない醍醐味があります。もう少し山の修行の魅力を語りたいと思います。
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