tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

田中利典師「吉野山と嵐山」(1)吉野は古来、逃避地だった

2023年03月24日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は、2016年(平成28年)11月、東京の奈良まほろば館で「吉野と嵐山の縁(えにし)」(世界遺産連続講座)という講演をされた。師はその講演録を7回に分けてFacebookに連載された(2023.2.28~3.6)。あまり知られていない貴重なお話なので、当ブログでも追っかけて紹介させていただく。
※トップ写真は吉野山ではなく、ウチの近隣公園のヤマザクラ(コロナ禍の2020.4.5に撮影)

連載の初回は、吉野山の話。〈吉野は古代から天皇や豪族が逃げてきたり、挙兵したりという場所であった。それは何かというと、吉野は古代から、幽玄の地、幽境の地、神仙の地というか、なんか、よみがえりの地というべきなにかがあり、そこに行ってパワーをもらうという、そういう場所であった〉とお書きである。では師のFacebook(2/28付)から、全文を紹介する。

シリーズ「吉野山と嵐山」①
昨日、なにげにNHKのニュースをみていると、京都嵐山に、吉野の白山桜が植樹されたようすが伝えられ、金峯山寺や吉野山保勝会のみんなが、嵐山蔵王権現堂に参拝している画像が流れた。

実は2011年9月にこの嵐山蔵王堂に私もお参りしている。嵯峨野の野宮神社で開催された斎王セミナーの講師として招かれ、「吉野と嵐山の深い縁」についてお話しさせていただいた折りに、初めてご案内を頂いたのである。どしゃぶりだったように思う。そのときのご縁が更に深まったようで嬉しかった。

で、吉野山のシロヤマザクラが嵐山に植樹された機会に、好評いただいている?私の著作振り返りシリーズの第7弾は、このときの講演を元に、その後なんどか行った「吉野山と嵐山」の講演から活字になっているものを探したらあったので、それを紹介させていただきます。2016年11月、東京の奈良まほろば館で開催した世界遺産連続講座から「吉野と嵐山の縁(えにし)」の講演録です。

吉野の歴史からひもとくので前置きが長く、なかなか本題の「吉野山と嵐山」の話に入りませんが、講演会の雰囲気を残しながら、7回に分けてアップしますのでご覧下さい。

******************

今年は金峯山寺及び吉野大峯の世界遺産登録10周年記念を慶讃し、吉野町との合同事業として、全10回の連続講座を企画させていただきました。今年の講座は、吉野に関連する人物に目を向けようという趣旨で、古代から近現代くらいまで、吉野と縁のある人々のお話しさせていただいています。一応私が企画しましたから、自分自身でも一回は出なあかんなあというので、今日、来ました。

最初にだーっと10回分のリストを書いて、「これ誰にしてもらえ」という指示した企画の中で、私はじゃあこれをするからと書いた題が、ここに書きました「後嵯峨/亀山上皇と吉野山と嵐山」です。

でもよく考えるとこんな長ったらしいタイトルは失敗やなあ、変えようかなあと思っている内に、告知がされてしまい、それで人が来るかいなあと、とても心配をしていたのです。でも幸い満員となりましたので安心をしております。ありがとうございます。

さて今日はまず、結論を先に言います。吉野山に「嵐山」という地名があるのですが、嵐山というと、みなさんは京都を思い浮かべるわけです。ところがあの京都の嵐山は分家でして、吉野が本家なんです。で、その分家を行ったのが後嵯峨上皇と亀山上皇だ、という話。

後嵯峨上皇の時代に、吉野から「嵐山」という地名と、同じく「ほおずきお」という地名を持って行ってことで、あの一帯を嵐山・保津峡と呼ぶようになった、そういうテーマの話ですので、要はそれさえわかっていただくと結論が出たということになります。でも、それでは70分の講話が3分くらいで終わってしまうので、そういうわけにはいきません。分家が本家に負けるのはよくある話なんですけれども、その元となったお話をじっくり詳しくしていきます。

まず「吉野」という地名ですね。吉野は古代からずっと日本史上に現れ続けるんですが、それは吉野で活躍した人、あるいは吉野を訪れた人たちの歴史が、日本の歴史の中で大きな意味をなすことがたくさんあった、のでそうなったわけであります。ですから、まず吉野を訪れた人々はどんな人があるのかなという所から見ていこうと思います。

第一番目は古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)。正確に言うと、皇子の前にも訪れた有名人はいます。古事記、日本書紀にも出てまいりますように、神話の世界ですが、神武天皇が大和にお入りになるのに、初め大阪からお入りになった。ただ、その道は土俗の人々の抵抗に会い、上手くいかなくて、それで改めて熊野から、紀伊半島の山々を越えて吉野に入り、それから大和に入る。吉野は神武様がお通りになったというような歴史があるのです。日本の歴史に関わる大きな足跡ですね。

しかしまあ正しく、正史と言われる中で出てくるのは、古人大兄皇子という、舒明天皇の第一皇子で、蘇我馬子の娘の子が、最初です。蘇我入鹿が、山背大兄王(聖徳太子の息子さんです)を殺して、古人大兄皇子が天皇の跡継ぎになります。ところが645年に大化の改新で、中大兄皇子に蘇我氏が滅ぼされ、蘇我氏の後ろ盾を失った古人大兄皇子は吉野に隠棲するのです。隠棲されるんですが、大化の改新の後、わずか3か月後には吉野で殺されてしまいます。

ここで注目するのは吉野に舒明天皇の第一皇子が逃げてこられたという事実。その辺から吉野というのは、都に対して「逃げる場所」的な、そういう場所であったことがわかる。

斉明天皇という舒明天皇の奥さん(重訴して皇極天皇)も吉野宮というのを営んで、吉野においでになりました。有名な額田王が斉明天皇に連れ添って、吉野に来て、歌を残したということもあります。

その斉明天皇のお子様たちが、天智天皇・天武天皇。中大兄皇子が天智で、大海人皇子が天武天皇です。大化の改新ののち、中大兄皇子は天智天皇として即位されたのは少し後なのですが、いずれにしろ、大化の改新を経て天皇家が蘇我氏から政権を取り戻したという話ですね。

天智天皇は近江京で天皇親政の世界をお造りになった。そしてその跡継ぎ問題でもめた時に、天智天皇の弟の大海人皇子は、「天智天皇はどうせ自分の息子の大友皇子に譲りたいだろうから、自分の身があぶない」というので、また吉野に逃げてこられ、そして吉野から挙兵して、天智天皇の息子の大友皇子を破って、天皇となられた。天武天皇です。これが壬申の乱であります。

で、そういう背景のもとに、吉野を拠点に天武政権はできたので、その天武天皇の奥さんの鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)という方は、なんと吉野に31回巡幸・行幸をされている。

鵜野讃良皇女、後の持統天皇ですが、彼女を主役に描いた『天上の虹』という里中満智子さんの長い漫画があります。この漫画はこの辺の所から物語が始まります。あの漫画、そろそろ完結したんですかね。今年の4月にラジオ収録で里中先生とご一緒しましたが、そのとき、完結しますっておっしゃってました。

それはともかく、そういう時代があって、吉野は古代から天皇や豪族が逃げてきたり、挙兵したりという場所であった。それは何かというと、吉野は古代から、幽玄の地、幽境の地、神仙の地というか、なんか、よみがえりの地というべきなにかがあり、そこに行ってパワーをもらうという、そういう場所であった。

さてその地に役行者という、後々には修験道を開祖と崇められる行者様が修行にお入りになります。そして蔵王権現という修験独特のご本尊を祈りだし、修験道という信仰を始めらます。もともと神仙境であった吉野ですが、そこに修験道という信仰が始まったことで、後々のさまざまな歴史に深くかかわってくるとことになります。この辺はこの後ゆっくりお話をいたします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする