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田中利典師の『霊山へ行こう』(16)「精進落とし」には、意味がある

2023年03月16日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は以前、『霊山へ行こう』という対談本を準備されながら、上梓されなかった。利典師はその原稿(自らの発言)に大幅に加筆され、Facebookに17回にわたり連載された(2023.1.21~2.10)。心に響く良いお話ばかりなので、当ブログで紹介させていただいている。
※トップ写真は大和郡山市・椿寿庵のツバキ(2010.2.6 撮影)

次回はいよいよ最終回となる。第16回のテーマは「一千座護摩供(ごまく)修行」。金峯山寺ではなく、比叡山で生まれた行法だそうだ。〈朝2時半から夜6時まで、一日9座の護摩焚き修行。5月から前行に入り、開闢(かいびゃく)の6月8日から結願(けちがん)の9月28日まで112日間、毎日毎日護摩を焚き続ける。最後の百座は精進潔斎に加えて、五穀と塩を断ったので、体重は最後、22キロほど落ちました〉というすさまじい行法だ。

この行を境に、利典師の人生が変わっていったという。しかし行を終えたとき、管長からは「行のことは早く忘れなさい」と言われたそうだ。せっかく厳しい行を終えたのに、なぜ、忘れなければならないのか。その答えは、本文をお読みください。師のFacebook(2/9付)より。

シリーズ「山人vs楽女/一千座護摩供修行」⑯
著作振り返りシリーズの第6弾は、実は校了まで行きながら、諸般の事情で上梓されなかった対談書籍の下書きの、私の発言部分を大幅に加筆してみました。今回を含め、あと2回です。みなさまのご感想をお待ちしております。

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「一千座護摩供修行」
私は38歳の頃、朝から晩まで護摩を焚きつづける「一千座護摩供修行」というお行に入らせてたいただいたことがあります。朝2時半から夜6時まで、一日9座の護摩焚き修行。5月から前行に入り、開闢の6月8日から結願の9月28日まで112日間、毎日毎日護摩を焚き続ける。最後の百座は精進潔斎に加えて、五穀と塩を断ったので、体重は最後、22キロほど落ちました。

そのとき、満行をして、「ああ…こんなに頑張って修行をしても何にもならんかったなあ」と思ったんです。悟れもしないし、煩悩まみれ、苦しいばっかりだった。本当に自分が情けなかったですわ。

でもその時、行を指導いただいた管長さん(故五條順教猊下)に、「なんにもならんかったとわかったことだけでもよかったじゃないか」といわれて、ものすごく救われました。命がけの行をしたからこそ、自分の愚かさを実感できたことが素晴らしいことだったんだと、このお言葉によって、あとあとじんわりわかってきたのでした。

それからともう一つ、管長さんから「行のことは早く忘れなさい」とも言われました。これも強烈に心に残りました。千座護摩行は、前行を入れると丸4ヶ月の修行ですから、満行したときはひどいひげ面でした。じつは、私は行をした証としてしばらく、そのひげを残そうと思ってたんですよ。

それを、「はやく忘れなさい」と言われて、満行の夜にすぐ剃りました。たぶん残していると、俺は行をしたんだと、変にこだわって、かえって行をしない方がよかったということになりかねないと諭していただいたのでしょう。そういうことをおそわりました。ホントにはやく忘れて良かったと思っています。忘れても、身体は覚えているんですから。それが行力になっていくんです。

ややもすると人間は、奥駈に行ったり、千日行とか断食行とかを果たすと、大変なご修行でしたね、なんて人にいわれ、「俺はやったんだ〜」という増上慢になりやすい。人間は危うい存在ですから、ちょっとしたことで、すぐに天狗になる。有頂天になる。そういう意味では管長さんに忘れなさいと言われたことはよかったですね。

たとえば、大峯奥駈修行に行くと満行の地の勝浦でドンチャン騒ぎをするんです。せっかく尊い修行を終えて、心と体でとても清浄しい、いいものをもらったのに、そんなことをしたらもったいないじゃないかという先達も昔はいたので、私も初めはそうかなと思ってましたけど、でもそうじゃない。

あそこでドンチャン騒ぎをして、行のことはいったん忘れた方がいい。忘れても身体は覚えていますから。忘れないと、逆に、修行で得た聖なるものをそのまま日常に持ち込むことになる。これを「聖なる穢れ」というんだそうです。

東映のやくざ映画を見て、その気になったまま町に出て他人と肩が触れたら、「なんじゃぁ~おんどれ!」と菅原文太さんの気持ちのままですごむようなもので(笑)、聖なるものを身につけたまま世の中に戻ると、危ないのです。いったん忘れてからでないと、社会復帰が出来ない。だから精進落としをするんです。精進落としをして、忘れることがとても大事なのですよ。

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一千座護摩行は懐かしい。こんな行法はじつは金峯山寺にはない。私が比叡山で学んだ時代の、兄とも慕う先輩(験乗宗松浦恵観座主猊下)が創設された新しい行法である。先輩の満行式に随喜して、私もやりたいと発心を起こしたことが、のちのちこのお行に繋がった。

私はそれまで金峯山寺で長らく部屋詰め生活をしていたが、このお行から、私の人生は変わって行ったように思う。まあ、でもそのお行のこともいつまでも拘ってはだめで、忘れなければいけませんね。捨てさることで心は清められます。ちなみに千座護摩のことは全部わすれようとしたのか、じつは一枚も当時の写真が出てこないのでした(😣)
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