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田中利典師の「天命を感じるとき」

2023年07月09日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、〈あさはかに生きる(天命1)〉(師のブログ 2012.9.30 付)と〈天命2〉(師のブログ 2012.10.1 付)。「親ガチャ」(生まれてくる子は親を選べない)という嫌な言葉があるが、これも1つの「天命」を言い当てているのかも知れない。
※トップ写真は吉野山花矢倉展望台から、金峯山寺蔵王堂を望む(3/31撮影)

師は〈過去の自分を振り返ると、そこに天命を感じてしまう〉とお書きである。当時、師は金峯山修験本宗宗務総長・金峯山寺執行長の要職にあり、また紀伊山地三霊場会議の初代代表幹事として、大車輪の活躍をされていた。それなのに、〈にもかかわらず中途半端にしか生きられない自分が、また愛おしいとも思う〉と謙遜される。では、2本のブログ記事をまとめて紹介する。

あさはかに生きる(天命1)
表題とは真逆なのだが、今日、私はまた天命を感じた。ほんと天命だなあと思うようなことがもう何度も起きている。…ところがその天命だと思うようなことが起こるたびに、それでもなお、その天命を拒否するような、あさはかな自分と出会う。天命を逃げるかのように、あさはかに生きる自分が、いるのである。

こんなことをしていたらいずれ天命に罰を与えられるかも知れない…、という畏れさえも持つ。…だから罰が当たらない程度には、天命に命じられるままに懸命に生きている、…そういうところもある。頑張っているよ。

ただ、人とは猥雑な生き物で、猥雑であるが故に、真実と向き合えるのだ、とも思っている。言い訳ではなく、そうホントに思う。中途半端がよろしい。中途半端に天命を生きるしか、…やはり、私にはない。そんなことにまたまた、出会った今日という日だった。おやすみなさい。

天命2
先日、天命について書いたが、少し誤解された方があるようなので、書き足したいと思う。私は天命は誰にでもあると思っている。…というか、天からの使命などというような大仰なものではなく、この世に生を受けて、さまざまな縁をいただいて、人は生涯を生きるのであるが、その家に生を受け、どの親の元に育ち、誰と出会い、誰と繋がるかということが、その人の人生そのものになる。

私もまたそうで、50数年の人生を経て、今までの自分を省みると、、行き着くところに行き着くべき形で歩んできたと、つくづく思うのである。もちろんあやうい時代、あやうい時間を生きたこともたくさんあった…っていうほど波瀾万丈ではないが、まあ人並みに波風は経験したと思う…が、それにしても、過去の自分を振り返ると、そこに天命を感じてしまうのである。

ありがたいことだと、先日も、奈良東大寺の大仏様の蓮台の上で、般若心経をお唱えしながら、思ったのであった。天命! …だからって、粋がっているのではなく、しみじみと、つくづくと、心にしみて、そう感じたのである。

にもかかわらず、中途半端にしか、生きられない自分がまた、愛おしいとも思うのだ。それもまた天命といえば天命なのかも知れない。
コメント
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