今日の「田中利典師曰く」は、2015年の師の「蔵王供正行」日記はお休みして、「NewsPicks +d」というサイトに掲載された師へのインタビュー記事「なぜ、一流のビジネスリーダーは修験道にハマるのか」(全2回のうちの後編)を紹介する(前編は、こちら)。
今回は、20年前の吉野大峯の世界遺産登録のことも紹介されている。〈田中さんの心血注いだ運動のおかげで、わずか半年で文化審議会で答申され、暫定リストに載り、4年で正式に世界遺産となりました。これは世界最速でした〉。以下、「地の文」を黒、「師の発言」を青で表示する。長い記事だが、ぜひ全文をお読みいただきたい。
動くことで運は開ける。不安や焦り、怒りから解放されるには
Naraoka Shuko(AlphaDrive/NewsPicks for Business 編集者)
山へこもって厳しい修行を行うことで悟りを得たり心の乱れを静めたりする、日本独自の宗教・信仰である「修験道」。修験道の総本山、奈良・吉野の「金峯山寺」で長臈(ちょうろう)職にある田中利典さんに、不安な時代を生きるための智慧を山伏修行や宗教的価値観からどのように得れば良いか、お聞きしました。(第2回/全2回)
教えがあり、行いがあり、信じる心があって、証明される
『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』は、浄土真宗を開かれた親鸞聖人による念仏門の指南書です。釈迦のお経と、インドや中国、日本の高僧の解説が引用され、全6巻からなり、52歳で完成としたものの、生涯手元に置かれて加筆修正を重ねられたとのこと。心血注いだこの本からは仏教の神髄が感じられます。
田中さんはこの指南書のタイトルを例えに挙げて、「経営者やビジネスリーダーたるもの、信じるから成すという価値観を取り戻してほしい」と語ります。
田中「教行信証はすなわち、教えがあり、行いがあり、信じる心があって、証明されるという価値観です。しかし、近代以降の価値観は『教行証信』になっている。仮説があり、実験をして、エビデンス(証)があって、ようやく信じる。エビデンスのないものは信じないわけです。
では人類はどれほどのことを証明し得たのか。森羅万象のまだ数パーセント程度しかなし得ていない。自分たちの生命のことさえ証明されていません。例えば、イエス・キリストが約2000年前にゴルゴタの丘で磔(はりつけ)になって、3日後に復活したから、キリスト教は生まれた。でもこれ、エビデンスはありませんよね?
お釈迦様が約2500年前にブッダガヤの菩提樹の下でお悟りを開き、仏教は生まれた。でも本当に釈迦が悟ったかどうかのエビデンスもありません。人々はイエス・キリストが復活したことを信ずる。お釈迦様がお悟りになった教えが正しいと信ずる。信ずるから御利益というか、人類を数千年にわたって支え続ける証が生まれたのです」
つまり商売や経営も同じこと。90%の人が認めてから挑戦するのでは遅い。リーダーたるもの、10%程度の段階でも「これでいく!」と信じるから、証が生まれる。不安な時代をリーダーとして生き抜く際に必要なのは、やはり教行信証──強い信念なのです。
情報は血肉にならない。なるのは物語化できたときだけ
山伏修行では、白装束を身にまとい、山に入って厳しい修行を行います。それはいわば自然と一体になって自然のエネルギーを体内に吸収することであり、自然と人間との共生を体感する契機にもなります。人はなぜ自然とつながると、不安や焦燥から解放されるのでしょうか。
田中「現代社会は情報がものすごくあふれています。でも、情報ってだけでは大して意味がない。例えばNHKのニュースでは毎朝、リオデジャネイロやモスクワの天気を教えてくれるけれど、一生に一度も行かないような場所の天気を聞いたところで仕方がない。だったら今日の奥さんのご機嫌を教えてくれるほうがよほど役に立ちます。結論としては、情報は血肉にならない。ところが、情報を自ら物語化すると、血肉になっていくのです」
そしてまた、物語化するためには、その人自身に教養、知識、体験、見識がないと難しい。リーダーはそういったことを日々培うのが肝心です。中でも修験道という身体的な行為は、日本人がもっと心から望む生き方ができる、その可能性を広げる効能がある。田中さんはそう信じ、「修験道ルネサンス」と名づけました。では、物語とは何か。それを田中さんは「つながりである」と言います。
自然と人、社会と人、人と人。そのつながり合う中に人生の真理がある。夫婦は、妻と夫というつながりが、夫婦の本質をつくる。親子も同じ。個々に本質はなく、つながりに本質がある。だから情報だけでは血肉にはならず、自らの物語にして初めて血肉になるのです。
田中「仏教には善因善果・悪因悪果・自因自果という教えがあります。良い行いからは良い結果が起き……という法則です。ただ、いくら原因があっても、結果にならないこともたくさんある。原因と結果をつなげるのは何か。“縁”です。ということは、やはり縁のほうに世の本質はあるのではないか。
私たち人間はどうしても自分の側に真実を求めたりこだわったり、我執が生まれたりしやすい。誰に対しても常につながっており、その関係性に本質があると思うと、少し飛躍した言い方になりますが、人の使い方や捉え方、ひいては経営そのものも変わってくるのではないでしょうか」
常に相手の都合を認める「恕」の精神
長臈を務める金峯山寺では、本堂である蔵王堂の本尊「金剛蔵王大権現3体」の特別開帳を毎年開催しています。これは国宝の蔵王堂と仁王門が2004年、ユネスコ世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として登録されたことがきっかけでした。この3体のうち中尊は7mを超え、口から牙をのぞかせ、まさに怒髪天をつく異形です。
田中「金剛蔵王大権現は長らく秘仏とされてきて、吉野に住んでいる人すら存在をよく知りませんでした。そこで、特別御開帳を始めたとき、広報活動をするのに権現様を1文字で表せないかと考え、『恕』という1文字が生まれたのです。恕は、相手を思いやって許すという意味です。権現様は憤怒の形相で現れましたが、一方で肌は青黒(しょうこく)色であり、仏の慈悲を表す。表情の怒と、肌の慈悲、つまりそれが恕だと──」
田中さんはサインを求められると「恕」という1文字を記します。「怒」という文字と非常に似ているので、「なぜ怒りと書かれたのですか?」と質問する方も多いそうです。
田中「『怒』は現代の世相をよく反映していますね。欲と怒りが、殺人や戦争を起こします。そうではなく、『恕』をぜひ生きる指針にしてください。これは常に相手の都合を認めてあげるということです。例えば、なんでそんなことで怒られなあかんの? 理不尽や!と思ったとき、いや、この人はこの人なりの怒る都合があるのだ、しゃあない、と認めて許すのです。
自己主張、自分らしさ、自分探し……、なんでも自分が主役ですが、さきほども申し上げたとおり、物事の本質は個々にはなく、つながりにあるのですから。まさに和をもって貴しとなす。日本人は1400年も前から和合で決めたほうが正しいという信仰を持ってきました。そのアイデンティティー、精神的なバックボーンを、もう一度意識しなおすべき時期だと思います」
気づいたゴミは拾う責任がある
40歳は孔子いわく「不惑の年」。その時期迷いに迷っていた田中さんは41歳のときに「自分の軸ができた」と言います。
田中「吉野には1300年以上の歴史があり、その吉野で私が何か活動することは、日本にとって意味を持つことであり、日本という国が世界の中で何かしらの意味を持つとするならば私の活動は世界にとって意味をなすことでもあると感じました。そのような志でユネスコ世界文化遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の登録運動に手を挙げたのです」
実際、田中さんの心血注いだ運動のおかげで、わずか半年で文化審議会で答申され、暫定リストに載り、4年で正式に世界遺産となりました。これは世界最速でした。また、自身にとっての座標軸ができたあとは、自分とタイプや考え方が違っても柔軟に人の話を聞けるようになったそうです。
田中「世界にとって意味をなす。そういった志を持つことは、人の共感を呼びます。やろうと思って行動する。すると誰かに出会うんです。そして出会った誰かがどこかに連れていってくれる。私が好きな言葉に『運は動より生ず』というのがありますが、運というのは、じっとしていたところで呼び込めない。動くから運が開けるのです」
そして最後にリーダーを担う人々に対し、田中さんは「気づいたゴミは拾う責任がある」という言葉を贈りたいと言いました。
田中「ゴミは、落ちていても、ゴミと認識しなければ拾いません(見つけて拾わないのは最低です)。見つけないと拾えないものなのです。もちろん、気づいたら捨てないといけないから大変です。しんどいこともある。でも、気づいた人にはやる責任がある。そして、さまざまなことに気づける人こそリーダーなのだと、私は思います」
修験道最奥の修行とされる、大峯奥駈(おおみねおくがけ)は、吉野から山上ケ岳を経て熊野を目指し、1日12時間歩き通します。吸う息、吐く息、足の運び、体幹の動きなど、一つひとつの動作に感覚が研ぎ澄まされていきます。余計なことは考えず、ひたすら身体の動きと心の裡(うち)に集中します。田中さんは「足を痛めて歩くのが遅くなる人がいるとちょっとうれしいんですよ」と破顔しました。
田中「こっちも実はクタクタなんです。だから、その遅くなっている人を『大丈夫か?』と励まし、一緒に歩く。すると自分もゆっくり歩けますよね。山伏修行は団体で行動しますから、そういう人が出てくることもすごく意味がある。置いていくのではなく、助けてあげる。そして、私自身も助かる。そういう視点、視座で物事を見ると、非常に豊かな気持ちになる。まさに恕の精神です」
金峯山寺では、5月から10月までの毎月1回、一般の方を対象に修行体験を開催。男性のみの山上ケ岳登拝(1泊2日)、女性のための吉野山巡拝(日帰り)や大天井ケ岳登拝(1泊2日)など、コースが選べます。また、大峯奥駈修行(8日間)の募集は3月からで、この修行の参加には選考があります。
深山幽谷を歩き、大自然と一体になることにより、我が身のケガレを祓い、新たな命を授かって再生する山伏修行。「歩く瞑想」「歩く禅」ともいわれるその修行は、コスパ、タイパとは正反対の時間をもたらし、この世をタフに泳ぎ渡れるずっしりとした力を与えてくれるに違いありません。
今回は、20年前の吉野大峯の世界遺産登録のことも紹介されている。〈田中さんの心血注いだ運動のおかげで、わずか半年で文化審議会で答申され、暫定リストに載り、4年で正式に世界遺産となりました。これは世界最速でした〉。以下、「地の文」を黒、「師の発言」を青で表示する。長い記事だが、ぜひ全文をお読みいただきたい。
動くことで運は開ける。不安や焦り、怒りから解放されるには
Naraoka Shuko(AlphaDrive/NewsPicks for Business 編集者)
山へこもって厳しい修行を行うことで悟りを得たり心の乱れを静めたりする、日本独自の宗教・信仰である「修験道」。修験道の総本山、奈良・吉野の「金峯山寺」で長臈(ちょうろう)職にある田中利典さんに、不安な時代を生きるための智慧を山伏修行や宗教的価値観からどのように得れば良いか、お聞きしました。(第2回/全2回)
教えがあり、行いがあり、信じる心があって、証明される
『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』は、浄土真宗を開かれた親鸞聖人による念仏門の指南書です。釈迦のお経と、インドや中国、日本の高僧の解説が引用され、全6巻からなり、52歳で完成としたものの、生涯手元に置かれて加筆修正を重ねられたとのこと。心血注いだこの本からは仏教の神髄が感じられます。
田中さんはこの指南書のタイトルを例えに挙げて、「経営者やビジネスリーダーたるもの、信じるから成すという価値観を取り戻してほしい」と語ります。
田中「教行信証はすなわち、教えがあり、行いがあり、信じる心があって、証明されるという価値観です。しかし、近代以降の価値観は『教行証信』になっている。仮説があり、実験をして、エビデンス(証)があって、ようやく信じる。エビデンスのないものは信じないわけです。
では人類はどれほどのことを証明し得たのか。森羅万象のまだ数パーセント程度しかなし得ていない。自分たちの生命のことさえ証明されていません。例えば、イエス・キリストが約2000年前にゴルゴタの丘で磔(はりつけ)になって、3日後に復活したから、キリスト教は生まれた。でもこれ、エビデンスはありませんよね?
お釈迦様が約2500年前にブッダガヤの菩提樹の下でお悟りを開き、仏教は生まれた。でも本当に釈迦が悟ったかどうかのエビデンスもありません。人々はイエス・キリストが復活したことを信ずる。お釈迦様がお悟りになった教えが正しいと信ずる。信ずるから御利益というか、人類を数千年にわたって支え続ける証が生まれたのです」
つまり商売や経営も同じこと。90%の人が認めてから挑戦するのでは遅い。リーダーたるもの、10%程度の段階でも「これでいく!」と信じるから、証が生まれる。不安な時代をリーダーとして生き抜く際に必要なのは、やはり教行信証──強い信念なのです。
情報は血肉にならない。なるのは物語化できたときだけ
山伏修行では、白装束を身にまとい、山に入って厳しい修行を行います。それはいわば自然と一体になって自然のエネルギーを体内に吸収することであり、自然と人間との共生を体感する契機にもなります。人はなぜ自然とつながると、不安や焦燥から解放されるのでしょうか。
田中「現代社会は情報がものすごくあふれています。でも、情報ってだけでは大して意味がない。例えばNHKのニュースでは毎朝、リオデジャネイロやモスクワの天気を教えてくれるけれど、一生に一度も行かないような場所の天気を聞いたところで仕方がない。だったら今日の奥さんのご機嫌を教えてくれるほうがよほど役に立ちます。結論としては、情報は血肉にならない。ところが、情報を自ら物語化すると、血肉になっていくのです」
そしてまた、物語化するためには、その人自身に教養、知識、体験、見識がないと難しい。リーダーはそういったことを日々培うのが肝心です。中でも修験道という身体的な行為は、日本人がもっと心から望む生き方ができる、その可能性を広げる効能がある。田中さんはそう信じ、「修験道ルネサンス」と名づけました。では、物語とは何か。それを田中さんは「つながりである」と言います。
自然と人、社会と人、人と人。そのつながり合う中に人生の真理がある。夫婦は、妻と夫というつながりが、夫婦の本質をつくる。親子も同じ。個々に本質はなく、つながりに本質がある。だから情報だけでは血肉にはならず、自らの物語にして初めて血肉になるのです。
田中「仏教には善因善果・悪因悪果・自因自果という教えがあります。良い行いからは良い結果が起き……という法則です。ただ、いくら原因があっても、結果にならないこともたくさんある。原因と結果をつなげるのは何か。“縁”です。ということは、やはり縁のほうに世の本質はあるのではないか。
私たち人間はどうしても自分の側に真実を求めたりこだわったり、我執が生まれたりしやすい。誰に対しても常につながっており、その関係性に本質があると思うと、少し飛躍した言い方になりますが、人の使い方や捉え方、ひいては経営そのものも変わってくるのではないでしょうか」
常に相手の都合を認める「恕」の精神
長臈を務める金峯山寺では、本堂である蔵王堂の本尊「金剛蔵王大権現3体」の特別開帳を毎年開催しています。これは国宝の蔵王堂と仁王門が2004年、ユネスコ世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として登録されたことがきっかけでした。この3体のうち中尊は7mを超え、口から牙をのぞかせ、まさに怒髪天をつく異形です。
田中「金剛蔵王大権現は長らく秘仏とされてきて、吉野に住んでいる人すら存在をよく知りませんでした。そこで、特別御開帳を始めたとき、広報活動をするのに権現様を1文字で表せないかと考え、『恕』という1文字が生まれたのです。恕は、相手を思いやって許すという意味です。権現様は憤怒の形相で現れましたが、一方で肌は青黒(しょうこく)色であり、仏の慈悲を表す。表情の怒と、肌の慈悲、つまりそれが恕だと──」
田中さんはサインを求められると「恕」という1文字を記します。「怒」という文字と非常に似ているので、「なぜ怒りと書かれたのですか?」と質問する方も多いそうです。
田中「『怒』は現代の世相をよく反映していますね。欲と怒りが、殺人や戦争を起こします。そうではなく、『恕』をぜひ生きる指針にしてください。これは常に相手の都合を認めてあげるということです。例えば、なんでそんなことで怒られなあかんの? 理不尽や!と思ったとき、いや、この人はこの人なりの怒る都合があるのだ、しゃあない、と認めて許すのです。
自己主張、自分らしさ、自分探し……、なんでも自分が主役ですが、さきほども申し上げたとおり、物事の本質は個々にはなく、つながりにあるのですから。まさに和をもって貴しとなす。日本人は1400年も前から和合で決めたほうが正しいという信仰を持ってきました。そのアイデンティティー、精神的なバックボーンを、もう一度意識しなおすべき時期だと思います」
気づいたゴミは拾う責任がある
40歳は孔子いわく「不惑の年」。その時期迷いに迷っていた田中さんは41歳のときに「自分の軸ができた」と言います。
田中「吉野には1300年以上の歴史があり、その吉野で私が何か活動することは、日本にとって意味を持つことであり、日本という国が世界の中で何かしらの意味を持つとするならば私の活動は世界にとって意味をなすことでもあると感じました。そのような志でユネスコ世界文化遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の登録運動に手を挙げたのです」
実際、田中さんの心血注いだ運動のおかげで、わずか半年で文化審議会で答申され、暫定リストに載り、4年で正式に世界遺産となりました。これは世界最速でした。また、自身にとっての座標軸ができたあとは、自分とタイプや考え方が違っても柔軟に人の話を聞けるようになったそうです。
田中「世界にとって意味をなす。そういった志を持つことは、人の共感を呼びます。やろうと思って行動する。すると誰かに出会うんです。そして出会った誰かがどこかに連れていってくれる。私が好きな言葉に『運は動より生ず』というのがありますが、運というのは、じっとしていたところで呼び込めない。動くから運が開けるのです」
そして最後にリーダーを担う人々に対し、田中さんは「気づいたゴミは拾う責任がある」という言葉を贈りたいと言いました。
田中「ゴミは、落ちていても、ゴミと認識しなければ拾いません(見つけて拾わないのは最低です)。見つけないと拾えないものなのです。もちろん、気づいたら捨てないといけないから大変です。しんどいこともある。でも、気づいた人にはやる責任がある。そして、さまざまなことに気づける人こそリーダーなのだと、私は思います」
修験道最奥の修行とされる、大峯奥駈(おおみねおくがけ)は、吉野から山上ケ岳を経て熊野を目指し、1日12時間歩き通します。吸う息、吐く息、足の運び、体幹の動きなど、一つひとつの動作に感覚が研ぎ澄まされていきます。余計なことは考えず、ひたすら身体の動きと心の裡(うち)に集中します。田中さんは「足を痛めて歩くのが遅くなる人がいるとちょっとうれしいんですよ」と破顔しました。
田中「こっちも実はクタクタなんです。だから、その遅くなっている人を『大丈夫か?』と励まし、一緒に歩く。すると自分もゆっくり歩けますよね。山伏修行は団体で行動しますから、そういう人が出てくることもすごく意味がある。置いていくのではなく、助けてあげる。そして、私自身も助かる。そういう視点、視座で物事を見ると、非常に豊かな気持ちになる。まさに恕の精神です」
金峯山寺では、5月から10月までの毎月1回、一般の方を対象に修行体験を開催。男性のみの山上ケ岳登拝(1泊2日)、女性のための吉野山巡拝(日帰り)や大天井ケ岳登拝(1泊2日)など、コースが選べます。また、大峯奥駈修行(8日間)の募集は3月からで、この修行の参加には選考があります。
深山幽谷を歩き、大自然と一体になることにより、我が身のケガレを祓い、新たな命を授かって再生する山伏修行。「歩く瞑想」「歩く禅」ともいわれるその修行は、コスパ、タイパとは正反対の時間をもたらし、この世をタフに泳ぎ渡れるずっしりとした力を与えてくれるに違いありません。