tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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田中利典師の「大先達レクイエム(1)」

2025年01月27日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、〈大先達レクイエム(1)〉(師のブログ 2017.8.31 付)だった。一昨日にも当ブログで紹介したが、この月の27日、山口順昭大和尚(北海道新冠郡新冠町の馬頭観音寺住職)がお亡くなりになったのである。

利典師は深く悲しまれ、〈帰途の道すがら、先生との思い出をいくつもいくつもたどり、生前の懐かしい顔がなんどもなんども脳裏に甦るのだった〉とお書きである。では、以下に全文を紹介する。

「大先達レクイエム(1)」
北海道のくま先生として、往時は、宗門の誰も知らない人のいなかった馬頭観音寺住職山口順昭大和尚が27日に91歳を一期として逝去された。

その悲報に接し、私と管長猊下の兄弟二人で、29日より、先生の下にはせ参じ、通夜前のお参り、そして通夜と葬儀の参列、葬儀での弔辞奉読、またご自坊での還骨法要執行と、ずっとそばに寄り添って、見送りのおつとめをさせていただいてきた。

その「日高ー千歳ー伊丹ー自宅」への帰途の道すがら、先生との思い出をいくつもいくつもたどり、生前の懐かしい顔がなんどもなんども脳裏に甦るのだった。

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私が先生の自坊、北海道新冠(にいかっぷ)町の馬頭観音寺でお世話になったのは25歳の頃。叡山学院を卒業して、本山に奉職するまえの半年間であった。先生は父と懇意で、宗会議長だった父がとてもかわいがった議員さんだった。そんな関係から、実は本山勤務前の「法違い」で、北海道でお世話になることになる。

叡山学院のある大津から吉野に入るのは、その年回りは不具合で、まず北海道へ行き、そこから本山に入るととてもよい、いわゆる「三大吉方」という父の指導による術で、先生の下でお世話にることになった。いまから思うと先生はよく預かっていただいたなあと思う。弟もその10年後、やはり「法違い」(方違え)で2ヵ月余、先生を頼ることになるのである。

先生との北海道生活は実に抱腹絶倒・空前絶後にして、楽しく、そしてある意味過酷で、忙しい毎日であった。当時の馬頭観音寺は昼夜を問わず信者様が出入りされ、また競走馬生産牧場の馬屋のお祓いは半年で百数十ヶ所を回らせてもらった。

そういういわゆる里山伏の修行(里の行)だけではなく、当時、東南院の大峯奥駈修行の総奉行だった先生のもとに、北海道からはじめて私は奥駈修行に参加したのだった。また東北の羽黒山や帯広の剣山(つるぎやま)登拝修行をはじめ、火生三昧・火渡り式を道内各地で毎月のように修行した。

また少し時間が出来ると、日高や大雪山の山奥深く、山菜採りにも出かけたし、ビックリしたのは朝5時に起こされて遠く襟裳岬近くまで、アイヌの隠し埋蔵金探しに、真顔で出かけたことも、一度や二度ではなかったのである。

根室標津(ねむろしべつ)の信者さまのお宅へも数度出かけ、国後島の国境沿いまで、魚釣りに出かけたこともあった。ともかく、それはそれは驚くような半年を過ごしたのであった。

豪放磊落、抱腹絶倒、空前絶後の先生、いろんな思い出がよみがえります。そんな先生のことを思いながら、高速道路で、自宅への道を走らせる車のカーステから、中島みゆきの「地上の星」が不意に流れ出し、泣いてしまった。なぜか、先生へのレクイエムとして、心に刺さってきたのだった。

大きな人でした。私の人間としての幅を広げていただいた、かけがえのないお一人です。ご冥福をお祈りします。
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