つい先日に起きた殺人事件の報道で、犯人に対してどう思うかと被害者家族に聞いているシーンがあった。
被害者の父親と思われる男性は『悲しさと悔しさで一杯の状態だから、そこまでは考えられない』という内容を答えていた。
本当に心底の実感の肉声だと思った。
そして、マスコミ記者の無神経さ、情けなさがはっきりと出ていた。
これがマニュアルであり、命じられた質問事項なのだろう。
よいコメントが取れたと思っているのだろうか。
仇討ち、敵討ちを検索して読んでみた。
ここに、その歴史的考察を述べるつもりはないが、結論的に言うならば仇討ちの考え方というのは物事を単純に割り切ってしまおうということでしかないようだ。
死刑という極刑を望む要素は仇を討ちたいという気持ち以外に、次に重い刑の無期懲役に決まってしまったなら模範囚を演じていればいつか出所が可能だと理由が大きな要素でもあるようだ。
もし、日本に終身刑があったなら、どれほど被害者家族の心は癒されるだろうか。
『だろうか』の後には『?』としての疑問だけが来るものとして、あまり癒されはしないだろうと考える人が多いのだろうか?
それとも『だろうか』の後には『!』としての強調が込められ、どんなに癒されるか測り知れないと考える人が多いのだろうか?
今までの文脈から判っていただけると思うのだが、わたしは後者だと思うのだ。
被害者家族に多くの可能性を未来を残して欲しいのだ。
なぜ『可能性を未来を』などと考えるかは、前回の最後に一つの理由を書いたが次回に別の理由を書いてみようと思う。
だんだん、そっけない文体になってきましたが、簡潔さをめざすとこうなるのかも知れません。
(もうちょっとつづく)
被害者の父親と思われる男性は『悲しさと悔しさで一杯の状態だから、そこまでは考えられない』という内容を答えていた。
本当に心底の実感の肉声だと思った。
そして、マスコミ記者の無神経さ、情けなさがはっきりと出ていた。
これがマニュアルであり、命じられた質問事項なのだろう。
よいコメントが取れたと思っているのだろうか。
仇討ち、敵討ちを検索して読んでみた。
ここに、その歴史的考察を述べるつもりはないが、結論的に言うならば仇討ちの考え方というのは物事を単純に割り切ってしまおうということでしかないようだ。
死刑という極刑を望む要素は仇を討ちたいという気持ち以外に、次に重い刑の無期懲役に決まってしまったなら模範囚を演じていればいつか出所が可能だと理由が大きな要素でもあるようだ。
もし、日本に終身刑があったなら、どれほど被害者家族の心は癒されるだろうか。
『だろうか』の後には『?』としての疑問だけが来るものとして、あまり癒されはしないだろうと考える人が多いのだろうか?
それとも『だろうか』の後には『!』としての強調が込められ、どんなに癒されるか測り知れないと考える人が多いのだろうか?
今までの文脈から判っていただけると思うのだが、わたしは後者だと思うのだ。
被害者家族に多くの可能性を未来を残して欲しいのだ。
なぜ『可能性を未来を』などと考えるかは、前回の最後に一つの理由を書いたが次回に別の理由を書いてみようと思う。
だんだん、そっけない文体になってきましたが、簡潔さをめざすとこうなるのかも知れません。
(もうちょっとつづく)