鳥瞰ニュース

空にいるような軽い気分で・・・

死刑確定と死刑執行と(その3)

2008年02月03日 19時36分16秒 | 個人的主張など
死刑を望む声について、思い起こしながら少し考えてみよう。
わたしは被害者家族縁者がマスコミに発言している内容について意見を述べようとは決して思わない。
子どもを返して欲しい、夫を返して欲しい、妻を返して欲しい、親を返して欲しい等々どうにも
ならない事とはわかっていながら発せざるを得ない悲痛な叫びに対して何を言うことがあるだろう。
被告に謝罪の態度を要求し、極刑(つまり現行法では死刑)を望む多くの被害者のコメントにも何も言うことはない。

ただ、不思議に思うのは被害者家族から、
「自分は被告の極刑を望まない」「許したいと思う」「早く刑を終え更生し社会復帰して欲しい」
というような言葉がひとつも聞えて来ないことだ。
そのような事を言う人はマスコミから無視されてしまうのだろうか。
善人であろうとしている人や、本当に誰の死も望まない人の声もある筈なのに、そのような人の発言は抹殺されるのだろうか?

死刑囚には教戒師がつき、こころを穏やかにするために方策がとられるようだ。
それなのに、被害者家族縁者に対して国は何をしてやっているんだろう。
通り魔殺人がきっかけで、そのような事件に対して、国が数百万円だかのお金を被害者家族に対し迅速に支給することになったことは知っているけれど、無料でカウンセラーを派遣したりして、事件による痛手をフォローするというのは聞いたことがない。
なぜそういう被害者に対して国はこうも冷たいのだろう。
死刑の判決を下した。刑も執行する。
それで満足せよという態度なのだろうか?
被害者家族(残された者)の悲しみは当初の烈しい感情から、加害者を許すというかたちに変わることもあるだろう。
加害者を許すという、崇高な想いに至ったときに加害者が死刑執行されていたらどんな気持ちがするだろう。
そういう気高い想いをないがしろにするような権利は国といえどもない。
死刑を執行するということはそのような想いを黙殺することではないだろうか。
死刑制度によって、二重に被害者を苦しませるということがかなりあるのではないだろうか。

(まだまだつづく)

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死刑確定と死刑執行と(その2)

2008年02月03日 12時59分53秒 | 個人的主張など
日本は国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄した国だから、日本の外交目的の最重要事項は当然ながら戦争回避なのだろう。
他国民を殺さず、自国民を殺させないということだ。
それならば、残虐な事件を起こしたとしても、その国が自国民を殺すなど考えにくいことだ。
因果の精査と更生への惜しみない努力をする度量があってこそ、国としての体面も保てるというものではないだろうか。

見せしめ、犯罪抑止効果という考え方がある。
死刑をあつかった小説や映画をみて思うのだが、あれは密室殺人だ。
死刑囚は目隠しをされ、少数の関係者だけに見守られて執行は秘密裏になされるようだ。

見せしめ、犯罪抑止をめざすなら、多くの人が見守るなかで公然と行われる方がよりよいのではないだろうか。
被害者の家族が望むなら、彼等の見ているところで、
死刑囚の家族もすべて呼んで、
始めに取り調べた警察官も、
取調べ検察官も、
死刑を求刑した裁判担当検察官も、
死刑を言い渡した判事達も、
弁護むなしく成功を勝ち得なかった弁護士も、
執行にGOサインをした、
法務大臣以下官僚役人達も
勢ぞろいしたなかで、
目隠しなどせず行ったらいいだろう。
もちろん、マスコミにも公開しテレビ実況がされる中で行われるべきではないか。
それ位の優しさと礼儀が執行される死刑囚に対して払われてしかるべきではないかと思う。

というのが、どうしても言うのなら・・・への妥協。
今回はここまで。

(まだつづく)

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死刑確定と死刑執行と(その1)

2008年02月03日 11時28分03秒 | 個人的主張など
最近ある被告の死刑が最高裁の上告棄却により確定しました。
日を置かず法務省が死刑囚3人の刑執行を発表しました。
死刑という言葉を聞いたり目にしたりする度に、ほんとうにがっくりがっかりしてしまう。
国というのは何だろうと考えてしまう。
そもそも国とは・・・とか、誰それの国家論によれば・・・とかを述べるつもりはない。
体系的に学んだこともないので、実は知識がない。
という訳で、自分のなかにある原則のようなものを直感的に述べてみよう。
国が自国民を合法的に死刑にするということは、破滅への道を選ぶようなものではないか?
西洋の物語だったか中国の春秋戦国時代の実話だったか定かではないのですが、想い出した事があります。
隣の国から攻められて敗北が確定的になった王が、兵に命じて自国の領民を皆殺しにしたという話。
それに極端だが、ガイアナで起った人民寺院というカルトの教祖が信者に自殺を命じて900人余りも死に自分も自殺した話まで想い出しました。
自分のなかでは、上記の話などが死刑と直ぐにリンクしてしまうのです。
最高刑を受ける人間というのは、人間社会の未来を望むにあたっての貴重なサンプルだ。
どのような育ち方育てられ方をして、どのような偶然や必然が重なって事件を起こしてしまったかを、あらゆる角度から検証すべきサンプルなのだと思う。
そして、そのような事件を起こしてしまった後でも、どのように人が変わることができるのかをじっくりと観察すべきサンプルでもあるのではないか。
突出した象徴的で貴重なサンプルを、多くの検証もせずに刑死させてしまうなんて、なんてもったいないことをするのだろう。
国家の未来への希望を摘むことにならないのだろうか?
多くの徒労感や疲労感や敗北感を残して死刑が執行されてしまうことによる弊害は計り知れないのではないか?

あまり長い文章にせず書きつないでいこうと思います。
(つづく)

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