旧河東町冬木沢に、会津高野山ともいわれる八葉寺を訪ねた。冬の陽が雲に隠れると、木々の枝々が伸び、地名「冬木沢」のようにいっそう厳しい寒さが身に染みるようだった。
八葉寺は空也上人により康保元年(964)に建立されたと伝えられ,文禄年間に再建され、本堂阿弥陀堂は国宝に指定されている。
山門をくぐると左手に池が、右に空也清水があった。案内説明文によると
『964年、空也上人は東北各地を巡錫中、紫雲たなびく当地にたどり着き、一宇を建立した。そして、浄水不足に悩む村人のため、一つは阿弥陀如来にお供えする水を得るため独鈷杵をもって此処を掘り浄水を得た。その末流に美しい八葉の睡蓮華が咲き誇ったので寺号を八葉寺と名付け、入滅にいたるまでここに逗留し、教えを広めたと伝える。』とある。
ここは「会津の高野山まいり」として会津一円の信仰を集め、毎年8月1日から7日までは近在の人々の祈りの列が絶えない。新盆を迎えた家々では,親戚縁者を頼み亡き人を偲んで冬木沢へ向かう風習がある。8月5日の祭礼で行われる空也念仏踊りは、空也上人によって広められ,本拠地の京都でさえ既に消滅しているという全国でも珍しい県指定の無形文化財である。厚い信仰と民間伝承が守り続けられている。
空也上人については、空也上人が念仏を唱える口から6体の阿弥陀が現れたという伝承を写実的に表していると言われる彫像の空也上人像が有名だが、空也上人のお墓がここ会津の地にあったとは知らなかった。
幾多の昔人が念仏を唱え、祈りを捧げてきた。現代に生きる我々も、常々神社に詣で、お寺に参り、神や仏に祈る。世界の大科学者だって信仰に生きている。この非科学的な所作を、人間は疑わずに続けてきたのだ。
生命科学者の柳沢桂子氏は「7万年も前の、我々より下等な人種ネアンデルタール人が、死者に花を捧げて葬ったことが分かっている。祈りの歴史は長いのだ。私たちは何かに祈るという神経回路を脳の中に持っていたと思う」と言っている。
科学を超越するものがあるからだろう。これからも、自分の健康を神に仏に祈って、希望を持ち生きていきたいと思う。そんなことを思いながら境内を歩いた。
*【空也上人】*
平安中期の念仏僧。生国不明。諸国を遍歴後、京都に入り、口称念仏を広め、市聖(いちのひじり)と呼ばれた。天台座主延昌により受戒、光勝の名を受けた。悪病流行時は勧進で仏像を造立。鴨川東に西光寺(のちの六波羅蜜寺)を建立。同寺の空也上人立像は有名。903(延喜3)~972(天禄3)
*【空也念仏踊り】*
空也念仏踊は天禄3年(972)冬木沢の地において入滅したと伝えられる空也上人により創始されたと言われています。長い年月の間断絶し詳らかでないが,大正10年に至り東京神田の空也光勝会により冬木沢に伝授され,空也光陵会によって伝承されている。(別名歓喜踊躍念仏とも称せられる。)
今は祭礼期間中の8月5日午前10時に開山堂(空也堂)の前で奉納される。墨染めの衣に袈裟をかけ貞盛頭巾をかぶり,白い脚半に足袋,草履を履いた服装で,導師は胸に鰐口を吊し,右手に撞木,左手に錫杖をつき,職衆は左手に瓢箪(2人),鉦(2~4人),太鼓(2人),右手に撞木を持って踊る。
空也念仏踊の本拠地の京都でも原形か消滅しており,この念仏踊は貴重な民俗芸能である。
昭和47年4月 県重要無形民俗文化財指定
八葉寺は空也上人により康保元年(964)に建立されたと伝えられ,文禄年間に再建され、本堂阿弥陀堂は国宝に指定されている。
山門をくぐると左手に池が、右に空也清水があった。案内説明文によると
『964年、空也上人は東北各地を巡錫中、紫雲たなびく当地にたどり着き、一宇を建立した。そして、浄水不足に悩む村人のため、一つは阿弥陀如来にお供えする水を得るため独鈷杵をもって此処を掘り浄水を得た。その末流に美しい八葉の睡蓮華が咲き誇ったので寺号を八葉寺と名付け、入滅にいたるまでここに逗留し、教えを広めたと伝える。』とある。
ここは「会津の高野山まいり」として会津一円の信仰を集め、毎年8月1日から7日までは近在の人々の祈りの列が絶えない。新盆を迎えた家々では,親戚縁者を頼み亡き人を偲んで冬木沢へ向かう風習がある。8月5日の祭礼で行われる空也念仏踊りは、空也上人によって広められ,本拠地の京都でさえ既に消滅しているという全国でも珍しい県指定の無形文化財である。厚い信仰と民間伝承が守り続けられている。
空也上人については、空也上人が念仏を唱える口から6体の阿弥陀が現れたという伝承を写実的に表していると言われる彫像の空也上人像が有名だが、空也上人のお墓がここ会津の地にあったとは知らなかった。
幾多の昔人が念仏を唱え、祈りを捧げてきた。現代に生きる我々も、常々神社に詣で、お寺に参り、神や仏に祈る。世界の大科学者だって信仰に生きている。この非科学的な所作を、人間は疑わずに続けてきたのだ。
生命科学者の柳沢桂子氏は「7万年も前の、我々より下等な人種ネアンデルタール人が、死者に花を捧げて葬ったことが分かっている。祈りの歴史は長いのだ。私たちは何かに祈るという神経回路を脳の中に持っていたと思う」と言っている。
科学を超越するものがあるからだろう。これからも、自分の健康を神に仏に祈って、希望を持ち生きていきたいと思う。そんなことを思いながら境内を歩いた。
*【空也上人】*
平安中期の念仏僧。生国不明。諸国を遍歴後、京都に入り、口称念仏を広め、市聖(いちのひじり)と呼ばれた。天台座主延昌により受戒、光勝の名を受けた。悪病流行時は勧進で仏像を造立。鴨川東に西光寺(のちの六波羅蜜寺)を建立。同寺の空也上人立像は有名。903(延喜3)~972(天禄3)
*【空也念仏踊り】*
空也念仏踊は天禄3年(972)冬木沢の地において入滅したと伝えられる空也上人により創始されたと言われています。長い年月の間断絶し詳らかでないが,大正10年に至り東京神田の空也光勝会により冬木沢に伝授され,空也光陵会によって伝承されている。(別名歓喜踊躍念仏とも称せられる。)
今は祭礼期間中の8月5日午前10時に開山堂(空也堂)の前で奉納される。墨染めの衣に袈裟をかけ貞盛頭巾をかぶり,白い脚半に足袋,草履を履いた服装で,導師は胸に鰐口を吊し,右手に撞木,左手に錫杖をつき,職衆は左手に瓢箪(2人),鉦(2~4人),太鼓(2人),右手に撞木を持って踊る。
空也念仏踊の本拠地の京都でも原形か消滅しており,この念仏踊は貴重な民俗芸能である。
昭和47年4月 県重要無形民俗文化財指定