■ 今年の正月は伝統行事の御柱を見て歩いた。御柱と火祭り(三九郎、どんど焼き)は共に道祖神に関る行事で、一連のものだという解釈を知った。火祭りで厄や穢れを焼き払い、道祖神の周りを清めて、新しい神様を迎える。御柱は神様が降りて来るための依り代、御柱は降臨柱だという。そしてオンベ(御幣)やイネバナ、キンチャク(巾着)は厄神に対する威嚇、つまり厄除けだとする解釈。 御柱と三九郎が共に道祖神の前に立てられている様子を見て、私はこの解釈が妥当なものであろうと感じた。
では穢れとは一体なんだろう・・・。その概念は? 諸相は?
先日『ケガレ』波平恵美子/講談社学術文庫を書店で見つけた。これだ!と買い求め、早速読んでみた。
第一章 「ケガレ」観念をめぐる論議とその重要性
第二章 民間信仰におけるケガレ観念の諸相
第三章 空間と時間とにおけるハレ・ケ・ケガレの観念
第四章 「災因論」としてのケガレ観念と儀礼
この本の章立ては以上の通りだが、興味深かったのは第三章だった。
**道が重なる辻、山の勾配の分かれ目となる峠、領界と領界との境目などを神聖であると同時に危険に満ちた場所とする認識は日本の民俗の中でさまざまな形をとって表現されている。**(210頁)という指摘。道祖神などを集落のはずれや辻に祀るのは空間の境がケガレの空間であるという認識があるからなのだ。
また、**時の流れを均一のもの均質のものとみなす社会はなく、普遍的に人間は時間をそれぞれに異なったものと認識しそれに応じた行動をする。**(249頁) これはハレの日とケの日という概念に通じる捉え方だ。さらにこれがケガレの時があるという認識にも繋がっていく(ケガレとは生命エネルギーとしての「ケ」が枯れた状態だという説が本書に紹介されている)。時間と時間の境は無防備な状態で厄神がやって来やすい、ケガレの時間ということだ。月齢に関る行事も当然このことに関係しているだろう。そうだ、「節分」の豆まきも。
三九郎や御柱は正月(小正月)の行事だが、正月は「時間の境」だ。
そうか、道祖神は「空間の境」に祀られていて、そこで「時間の境」に三九郎と御柱が行われているのか・・・。