■ 京都ひとり旅、23日の朝は8時過ぎに京都駅からJR山陰本線(嵯峨野線)で円町駅へ。この駅から朱雀第六小学校の敷地内に立つ火の見櫓目指して歩く。
住宅の屋根の向こうに火の見櫓上部が見えた。
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小学校のグラウンドの隅に立つこの火の見櫓には半鐘が無い。半鐘が撤去されてしまったものは火の見櫓ではないという見解を示す火の見櫓ファンもいる。半鐘が無ければ火災の発生やその後の状況などを伝えることができないから、火の見櫓としての機能を喪失している。この意味において、先の見解は実に明快だ。
だが私は半鐘の無い「元ヒノミ」も火の見櫓として観察している。
ここに祗園の火の見櫓のような半鐘が吊り下げてあれば感動的なんだけど・・・。
櫓を構成する柱材にも横架材、ブレースにも等辺山形鋼が使われている。見張り台の手すりには消火ホースを掛けるフックが付いている。
半鐘が吊り下げてあったということは確認できない。手すりの上で柱をつなぐ横架材の隅に火打梁のような部材があるが、ここに半鐘が吊り下げてあったのかどうか・・・。フックもないしメンバー(部材寸法)も小さいから判然としない。
注目の脚元。櫓の中間部と同じ扱いで、脚部としてのデザインにはなっていない。
小学校の正門の脇に消防団の詰所(関西では屯所という名称か?)があった。
火の見櫓だけを観察して帰っていたら見つけることはできなかった。せかせか行動しないでじっくり周囲を見てまわることが肝心だ。神社巡りでも然り。旅の教訓としたい。
■ ぎおん楽宴小路の火の見櫓を見てから、歩いて清水寺に向かう。距離は2キロくらいのはず。途中で安井金比羅宮に立ち寄る。
ここにも狛犬がいて・・・。 向かって右側の阿形の狛犬(獅子)を撮ったところで、なんということだ、カメラが・・・、バッテリー切れ。
旅の教訓 予備のバッテリーを持っていく これは常識なのかも。
八坂の塔も清水寺の狛犬も脳内保存のみ。
早めに京都駅にバスで戻る。宿に入って、少し休んでから駅前の某ホテルの1階にある居酒屋へ。ここで美女と待ち合わせ、 ンなわけなか・・・。ハニートラップなボンドガールなど現れるはずもなく、カウンターでひとりさみしく・・・。 酒量はというと と控えめ。そしてという健全な夜だった。
翌朝、宿を出る時 玄関に飾ってあった狛犬(?)を撮る。今日(23日)は天気が下り坂とのこと。
京都駅から最初の目的地へ電車で向かう。 次稿に続く・・・。
櫓壁面にこのエリアの名称「ぎおん楽宴小路」の表示がある。
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■ 東山区祗園東、八坂神社のすぐ近くにこの火の見櫓が立っている。今回の京都ひとり旅ではこの火の見櫓を見ない手はないなぁ~、とここに来ることにしていた。
町屋風の小さな店舗が囲むこのポケット広場はネット検索で得た情報によると1994年(平成6年)に整備されたそうだ。よく指摘されることだが日本では街路的空間が一般的で、このような広場的空間というのはそれほど例がない。
この広場には単なる広告塔ではつまらないと考えたのかどうか、鉄骨造の火の見櫓が立っている。それ程広くはない広場、閉鎖的な狭小空間では火の見櫓は人の視線を上方へ誘導する仕掛けとして有効で、魅力的な空間を構成する要素だということを実感した。
ではなぜここに火の見櫓が建てられたのだろうか・・・。
以下やはりネット情報で得たにわか知識。
江戸時代、この辺りに近江の膳所(ぜぜ)藩の京屋敷があり、この場所はその屋敷の東端に位置しているそうだ。膳所藩は淀、亀山、大和郡山の各藩と共に禁裏御所方火消を務めていたが、1722年(享保7年)に京都定火消も兼務する京都火消役の重責を担うことになった。そのために膳所藩は屋敷内に火の見櫓を建て、その役目を務めたという。
このような歴史に基づき、この場所に火の見櫓を広告塔として建てたということのようだ。
火の見櫓はこの小路の先に立っている・・・。
誰でも知っている場所ではなく、ここのような知る人ぞ知るディープな空間の存在が都市の魅力を倍加する。