透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

「おそめ 伝説の銀座マダム」

2010-12-12 | A 読書日記
 一世を風靡した銀座マダムの波乱の生涯を描いた『おそめ 伝説の銀座マダム』新潮文庫を読み始める。とりあえずカバー裏面の紹介文を載せておく。

**かつて銀座に川端康成、白洲次郎、小津安二郎らが集まる伝説のバーがあった。その名は「おそめ」。マダムは元祇園芸妓。小説のモデルとなり、並はずれた美貌と天真爛漫な人柄で、またたく間に頂点へと駆け上がるが―。私生活ではひとりの男を愛し続けた一途な女。ライバルとの葛藤など、さまざまな困難に巻き込まれながらも美しく生きた半生を描く。隠れた昭和史としても読める一冊。**

巻末に参考文献一覧が載っているが、その数がすごい。著者はこのノンフィクションの執筆に約5年を費やしたという。

読了後にまた書こう。

注)**内は引用文。



 『おそめ 伝説の銀座マダム』 石井妙子/新潮文庫を読み終えた(1212)。

大正12年、上羽秀(うえば ひで)は京都木屋町、高瀬川のほとりの裕福な石炭問屋に生まれた。家庭内にあってはならない不幸な出来事で母親は秀と掬子、ふたりの娘と共に婚家を出る。妹の掬子は養女に出されて・・・。 やがて秀は祇園芸妓になる。 そして運命の人、俊藤浩滋との出会い・・・。秀の人生をトレースしようとすればかなり行数を要す。

ここでは起伏の多い人生を「さだめ」と受けとめて生きぬいたひとりの女性、その生涯を綿密な取材に基づいて綴ったノンフィクション と括っておく。

巻末の参考文献一覧は2段組で18頁に及ぶ。取材協力者は100名近くになるという。これはもう凄いという他ない。著者・石井妙子さんの執念と評すべきだろう。


「見える」ということ

2010-12-11 | A あれこれ


『車窓の山旅 中央線から見える山』山村正光/実業之日本社

 1985年だから、25年前に読んだこの本のことをふと思い出した。

カバー折り返しに載っているプロフィールによると、著者の山村さんは昭和2年生まれ。国鉄で40年間、主に中央線の車掌として新宿―松本間をおよそ4000回乗務したという。

旧制甲府中学で山岳部だったという山村さんは、中央線から見える山々を車窓から観察し続けた。観察した山々について本書にまとめた。紹介されている山は100座を越える。見開き2頁に1座、塩尻松本間では鉢盛山、鉢伏山、鍋冠山、燕岳、仙丈岳、王ヶ鼻、常念岳、大滝山、有明山、そして最後に乗鞍岳が取り上げられている。

有明山の頁では山の名前の由来について、『日本名勝地誌』の有明山の項の「霖雨ある毎に河水汎濫上流より巨石を押流し来たりて雨後は必ず沿岸の景色一変す」という記述を紹介し、有は荒の転化、明は『古代地名語源辞典』から崖、湿地ではないかとし、中房川の氾濫で生じた「荒れはてた湿地」あるいは花崗岩の風化による「荒れた崖」の源頭の山という意味ではないか、と記している。さらにこの説を補強する文献が紹介されているが、引用は省略する。「荒れた崖」は有明山の特徴をよく示しており説得力がある。

このように、山村さんは取り上げたそれぞれの山を内容濃く紹介している。山に関する興味、知識がなければ中央線の車窓から、この本に紹介されている山々は見えないだろう。脳は伝えられる情報を既得の情報に照らし合わせて認識するのだから。

知らないことは見えない、認識できない。昔、撮りためた民家の写真をまとめたときも、これと同じことを書いた(下)。考え方は変わらないものだ。

ところで、山梨県にはあお向けに寝た裸の女性を思わせる山があって、勝沼駅あたりから見えるという(新宿に向かって右側)。こんど電車で東京に出かけるときに観察してみよう・・・。


繰り返しによるファサードの構成

2010-12-09 | B 繰り返しの美学


ゑしんの里記念館


豊田市美術館


 新潟県上越市にある「ゑしんの里記念館」(上)。人工的につくられた「水庭」と鉄骨のフレームの繰り返しは豊田市美術館(下)のファサードの構成とよく似ている。そう、「繰り返し」が美しいということを池原さんも谷口さんも承知している。でなければこのようなデザインをするはずがない・・・。




「自炊」

2010-12-08 | A あれこれ

 6日付の産経新聞の朝刊に蔵書の電子ファイル化に関する記事が掲載されていた。記事に使われていた自炊という言葉は「本を裁断してスキャナーで内容を読み取り、自ら電子書籍化すること」という意味だという。「自分で食事をこしらえること」 (広辞苑)という本来の意味とは違うのだ。

データをUSBメモリに吸い取るというような表現をすることはある。自分でデータを吸い取るという意味で「自炊」か。わざと誤字をあてることはネット上ではよくあることだ。

ある建築雑誌を定期購読していたころは興味ある記事だけを切り取ってホチキスで留めて透明ポケットファイルにストックしていた。それと同様の行為だと思えば、自炊も理解できないことはない。いや自炊の方が情報管理という点では優れている。が、それが本となると、本好きには理解できない。自炊は雑誌限定の行為ではないのか。

本というリアルな存在がバーチャルなデータに置き換えられる。これも抗しがたい時代の流れなのか・・・。


― 火の見櫓解体

2010-12-07 | A 火の見櫓っておもしろい



 「市民タイムス」(タブロイド版のローカル紙)に火の見櫓解体の記事が載っていることをFさんから電話で教えていただいた。

松本市波田で、不用になった5カ所の火の見櫓を解体する事業を始める、と記事にある。その第一弾として6、7日で2区の火の見櫓を解体するという・・・。

*****



今朝(7日)、撤去が報じられた火の見櫓を見に行った。既に時遅し。火の見櫓は撤去され、自然石往復積の擁壁に梯子が残されているのみだった。

昭和30年代に全国で盛んに建てられた火の見櫓が次第に撤去されていることは承知している。でもそれはどこか遠くの市町村の出来事のような気がしていた。地元の鉄工所が住民の期待に応えて誠意を尽くしてつくった火の見櫓が解体されて消えてしまう。そんなことがこの松本平でも起こるなんて・・・。
 


121 上越市の火の見櫓

2010-12-06 | A 火の見櫓っておもしろい



 先日 上越市板倉区(旧板倉町)にある「ゑしんの里記念館」の見学会があった。この記念館は親鸞の妻・恵信尼ゆかりの資料や関連書物などの展示のために、恵信尼が晩年を過ごしたとされる板倉区に計画された。設計は池原義郎氏。繊細な意匠が施された建築だ。是非見学したかったが残念ながら私は参加できなかった。

参加した同僚が撮った写真(上)、遠くに火の見櫓が写っている!  この火の見櫓にTさんは気がついた(拍手)。で、写真を撮ってきていた(下)。もっと近づいて撮って欲しかったが、仕方がない。


121

この屋根は6角形だろうか、見張り台と比べると小さい。それに松本平の火の見櫓とは形が少し違う。

松本から、ここまでは車で2時間だと聞いた。いつか出かけなくては・・・。


建築と本

2010-12-04 | A あれこれ

 建築と本をひとつのカテゴリーで括るのには無理があると思いつつも、そのままにしてきた。過去の記事にまで遡ってカテゴリーを分けることはもはや不可能だから。もっとも建築設計と文章を書くこととは似てはいる。建築言語、ボキャブラリーをルールに則って構成することが設計に他ならず、そうして建築は成立しているわけだし、文章もまた文法というルールに従って単語、ボキャブラリーを構成することで成立しているのだから。

『本は、これから』岩波新書に収録されているジャーナリスト・外岡秀俊氏の「三度目の情報革命と本」という論考に出てくるが、スイスの歴史家・ブルクハルトは、ルネサンスの二大情熱として「書物」と「建築」を挙げているという。情熱という言葉の意味がよく分からないが、とにかくこの視点からは、建築と本はひとつに括ることができる、ということらしい。

このくだりを読んで、建築と本をひとつのカテゴリーにしていることの違和感というか不自然な感じがなんとなく薄らいだ。赤塚不二夫的納得 「これでいいのだ」。


ブックレビュー 1011

2010-12-03 | A ブックレビュー



 師走、今年もあと1ヶ月。「光陰矢の如し」を実感する。

川端康成の小説は中高生のときに読んだ、という人が多いかもしれない。私もそうだった。文庫本の用紙が薄茶色に変色していて時の流れを感じる。文庫本が自室の書棚に並んでいて、常に目に入ることが再読のきっかけになった。電子書籍ではこうはいかないだろう。

川端康成の小説には自然の美が織り込まれ、物語は季節のうつろいと共に進む。川端がこの国の美しい自然、文化を愛でていたことは、ノーベル文学賞受賞記念の講演のタイトルが「美しい日本の私」だったことからも窺える。

11月はこの作家の4作品を再読しが、『千羽鶴』の続編の「波千鳥」が最も印象的だった。数年前、『雪国』、『眠れる美女』(共に新潮文庫)も再読したから、あとは『古都』か・・・。 


本の魅力

2010-12-01 | A 読書日記



■ 今年、2010年は電子書籍元年と言われる。 紙の本と電子書籍をめぐる議論が盛んだ。『本は、これから』岩波新書も電子書籍の時代を迎えて紙の本がどのように変貌するのかを論じた一冊。37人の論考が収録されている。「本好き」の私には必読書だろうと先日買い求めた。

本書に収録されている内田樹(たつる)氏の「活字中毒患者は電子書籍で本を読むか?」と題する論考を興味深く読んだ。

**自分が全体のどの部分を読んでいるかを鳥瞰的に絶えず点検することは読書する場合に必須の作業**と内田氏は指摘している。確かに本を読むときは、時々本の小口を見て半分くらい読み進んだとか残りは4分の1だな、というように確認する。このような把握がしにくい電子書籍は紙の本に劣るということだ。この点はアナログ時計とデジタル時計の違いにも通じるか。

氏は更に**「読み始めてから読み終わるまでの全行程を上空から鳥瞰している仮想的視座」からスキャンする力がなければ、そもそも読書を享受するということは不可能**とまで書いている(43頁)。

**紙の本では頁をめくるごとに、「読みつつある私」と「読み終えた私」の距離が縮まり、(中略)最後の一頁の最後の一行を読み終えた瞬間に、ちょうど山の両側からトンネルを掘り進んだ工夫たちが暗黒の一点で出会って、そこに一気に新鮮な空気が流れ込むように、「読みつつある私」は「読み終えた私」と出会う。読書と言うのは、そのような力動的なプロセスなのである。**と指摘し、**電子書籍ではこの小刻みな接近感を読者にもたらすことができない。**と続けている(45頁)。氏の視点によれば紙の本が圧倒的に優位なのだ。

数日前、『子どもの絵は何を語るか』について「先日、書店で本をさがしているとき、この本が私を呼んでいるような気がした。即、手にとって、レジへ直行した。時々このようなことがある。このようにして入手した本はなぜか面白い。」と書いたが、氏も同様のことに触れ、本の送り手が敬意と愛情を込めている本には固有のオーラがある、と書いている。本とは「宿命的な出会い」が必要だが、電子書籍ではそれができないとも。

内田氏の説得力のある論考はこの本の中ではピカ一だった。