透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

伊勢神宮 式年遷宮

2013-04-17 | A あれこれ



 伊勢神宮では20年に一度、社殿のみならず装束や神宝を新しくつくりかえ、大御神に新しいお宮にお遷り願う式年遷宮が行われます。今年で62回目となる式年遷宮が始まったのは、なんと690年のことだそうです。ということは1300年以上も前から、脈々と受け継がれてきたことになるわけですね。これにはただただ驚くばかりです。

先日買い求めた雑誌によると、式年遷宮にはいくつかの行事があって8年の歳月をかけて行われるとのことです。山口祭、木本祭、御杣始祭、・・・川原大祓、御飾、遷御、大御饌。

一連の行事のひとつに完成した正殿の敷地に敷く白石を奉献する御白石持(おしらいしもち)行事があることを知りました。ある宮司さんのご紹介でこの行事に参加させていただくという機会を得ました。その際、完成したばかりの正殿を目の当たりにできるのです。今からその日を楽しみにしています。

伊勢神宮で行われている様々な祭典、儀式のことなどを勉強中です。何も知らないので・・・。神事に関することばには全く馴染みがなく、漢字が読めません。ああ、なんということだ・・・。


 


南海トラフ巨大地震

2013-04-16 | A 読書日記



 内閣府の「南海トラフ巨大地震対策検討ワーキンググループ」が2012年の8月にまとめた南海トラフ巨大地震で想定される最大被害規模では死者が32万人にもなっているという。東日本大震災後、首都直下型地震の発生を予想する研究者もいる。

先日『東海・東南海・南海 巨大連動地震』 高嶋哲夫/集英社新書を読んだ。著者には自然災害をテーマにした著作が何冊かあるが、この本もその内の1冊。

南海トラフ巨大地震によって甚大な被害を被ると想定されている東京から宮崎までの各都県について、作家のイマジネーションと科学的な知見(著者は工学部の出身)によって「その時」の様子をショートストーリーとして描いている。

読了後、これを小松左京の『日本沈没』のような長編小説に仕立てて欲しかったな、と思った。客観的なデータからリアルなその時をイメージすることはなかなか難しい。東日本大震災の被害を繰り返し映像で見てはいるものの、被害の想定規模が全く違う。

想定される未曾有の大規模広域災害に備える。そのためにはまずリアルにそれをイメージすることではないか。


 


富岡製糸場

2013-04-15 | A あれこれ



 13日の土曜日、群馬県の富岡製糸場を見学したことは既に書いたが、見学券に富岡製糸場の錦絵が使われているので、再度アップする。

江戸後期、伊能忠敬が日本の全土を測量して歩き、その成果を正確な日本地図(実測図)にまとめたのが1821年のこと。それまではこの国の正確な形を誰も知らなかったわけだ。

それからわずか50年後、鎖国を解いて日本地図から一気に世界地図で日本のことを考えなければならないという大きな変化、パラダイムシフト。

それを見事にこなして、生糸の生産・輸出をもって世界に打って出るということ、そしてそのために世界最大規模の生糸の生産工場を構想した明治人の優秀さを想う。作家・司馬遼太郎が明治好きだったことも頷ける。

この錦絵に描かれている主な建物を1年数ヶ月で完成させたことに明治という時代の底力を感じる。比して現代の日本人は、平成という時代はどうだろう・・・。


 


碓氷峠めがね橋

2013-04-14 | A あれこれ









 旧信越本線の横川、軽井沢両駅間にある煉瓦造4連アーチ橋を富岡製糸場見学からの帰りに立ち寄って見学しました。



このような説明看板がありました。

この煉瓦橋は取り壊すという計画があったそうです。でも残ってよかったです。この橋のことは以前から知ってはいましたが、やはり訪れる機会がいままでありませんでした。昨日(13日)、明治時代の貴重な遺産を2ヶ所も見学することができ、とても充実した一日となりました。



 


富岡製糸場の見学

2013-04-14 | A あれこれ

■ ようやく念願かなって、昨日(13日)群馬県富岡市にある富岡製糸場の見学に行ってきました。ここには近代日本の幕開けを象徴する建築が建ち並んでいます。

世界最大規模の繭倉庫(東西2棟)と繰糸場という主要な施設を広大な敷地(53,738㎡)にコの字形に配置しています。コの字の中に繭の乾燥場と蒸気釜所、鉄水槽などを配置し、コの字の外側すなわち敷地外周に女工の寄宿舎、工場建設の指導にあたったフランス人ポール・ブリュナの家族の住居(といっても面積は916.8㎡と広い)や病室付きの診療所、フランスから招いた女性技術者(女工に技術指導をした)の宿舎、検査人館などが配置されています。

明治政府が日本の近代化を生糸の生産と輸出に賭けて建設した富岡製糸場。これだけの規模の施設を構想したことと、それを1年数ヶ月で完成させた明治時代の日本の底力に驚きます。140年経過して今なお健全な建築、当時の職人たちの技術の確かさに敬服します。

 

▲ アプローチ道路正面のアイストップは富岡製糸場の東繭倉庫、1階中央のゲートが印象的。ヨーロッパの古い都市空間を思わせる構成。


東繭倉庫 木骨レンガ造2階建て 和の真壁と洋のレンガ 桁行方向の長さ104.4m 梁間方向12.3m 高さ14.8m 明治5年建設



▲ 東繭倉庫正面(東側)外観 木のフレームと両開き扉の繰り返しの構成が美しい。 繰り返しの美学!



▲ 妙義山から伐り出されたという杉材、現甘楽町につくられた窯で焼き上げたレンガ、下仁田の石灰を主成分とする漆喰、連石山(甘楽町)から伐り出してつくられた礎石、地元地消でつくられた施設

柱脚と礎石の固定方法は?



▲ アーチの中央頂部のキーストーンに彫り込まれた建設年



▲ レンガ造アーチの端部と柱の取り合い




▲ 2階床の合わせ梁の小口 雨対策は?



▲ フランス積みのレンガ壁



▲ 裏面(西面)外観 バルコニー式の外廊下



▲ 内観 東繭倉庫1階内部(展示スペース)  木の白い通し柱と2階の床梁

繰糸場 木骨レンガ造平屋建て 桁行方向の長さ140.4m 梁間方向12.3m 高さ12.1m 明治5年建設



▲ 繰糸場北面外観 ガラスはフランスからの輸入品とガイドさんの説明



▲ 繰糸場の内部  木造トラス これぞ繰り返しの美学! 


今回の見学に一緒に行ったY君、運転おつかれさま。Mさん、サンドウィッチごちそうさま。Hさん、また見学に行きましょう。


 


庚申って何?

2013-04-13 | B 石神・石仏


庚申碑 長野県青木村にて 撮影日 130409

 干支は十干と十二支の組み合わせで日や年を表す方法ですが、十干、すなわち、甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(へい、ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと)は話題には挙がりませんね。ですから、今年の干支は? と訊かれれば、巳年と誰もが答えるでしょう。癸巳(みずのとみ)と答える人は100人いや1,000人に訊いて1人いるかどうか・・・。

でも丙午(ひのえうま)という年があることは今でも知られていますし、甲子園球場の名前は甲子(きのえね)の年に建設されたことに由来することも知られています。

日々の干支が表示されているカレンダーは、今ではほとんど見かけなくなりました。でも土用の丑(うし)の日には鰻を食べる習慣がありますし、妊婦さんが妊娠5ヶ月目に入った戌(いぬ)の日に腹帯を巻いて安産を願う風習が今でも残っています。このように日々の暮らしには干支と関わりがまだ残っています。

十干と十二支の組み合わせだと、同じ組み合わせの年になるのに60年かかります(10と12の最小公倍数の60)。60年かかって同じ干支に還る。これが「還暦」です。今年還暦という人は60年前の癸巳(みずのとみ)の年に生まれたんです(いかにも前から知っていたかのような書きぶりですが、最近調べて十干が癸だと知りました)。

前置きが長くなりました。

庚申と文字書きされた石碑のことを書くつもりでした。写真の石碑は先日青木村で見かけたものです。同行のSさんから庚申って何ですか?と訊かれて、前述した干支のことから始めて、次のような説明をしました。

ここからは既に書いたことの繰り返しですが、これは古い道教から起こった考え方です。60日ごとに巡ってくる庚申(こうしん、かのえさる)の晩になると、体の中に宿っている三尸(さんし)の虫が本人の眠っている間に身体からぬけだして天に昇り、天帝にその人の罪やあやまちを報告するので寿命が縮められてしまうということで、それなら眠らないでいようと、夜を徹して宴を催したりしたという、平安時代の貴族のならわしが始まりだと手元の資料(*1)に説明されています。同様の説明がウィキペディアにもあります。

松本平では(他の地域でもおそらく同じでししょうが)、江戸時代中期以降に庚申講(私の地元では「おこうしんさま」と呼ばれていました)が組織され、生活互助会のような役割を果たしていたわけです。庚申碑も建てられるようになりました(庚申の年に建てるのが原則)。

庚申の日の夜、女性だけで当屋(当番の家)に集まって、今でいう女子会をすることもあったでしょう。本来の宗教的なというか、信仰的な意味合いは次第に薄れて、私の子どものころには既に親睦会のようなものになっていたと思われます。




共に朝日村西洗馬に祀られている庚申碑

上の文字碑は万延元年(1860年)の建立で、調べてみるとこの年は庚申の年です。

下は青面金剛像、これも庚申碑です。建立は昭和55年、やはり庚申の年です。ちなみにこのデザインは同級生のお母さんの作品です。


*1 『安曇野 道祖の神と石神様たち』西川久寿男/穂高神社


初めての給食

2013-04-10 | D 新聞を読んで


市民タイムス 130410付の1面記事より

■ 松本市及びその周辺の市町村が購読エリアのローカル紙、市民タイムスの1面に松本市内の小学校で昨日(9日)、新年度初めての給食があったという記事が載っている(写真)。また安曇野市内の小学校でもやはり初めての給食があったことが別の記事で紹介されている。

学校名を伏せる必要もないだろうから、実名を記して記事に紹介されているメニューを載せる。

松本市今井小学校
・ご飯
・サケの塩焼き
・野菜のごまあえ
・野菜とキノコたっぷりの汁物
・牛乳

安曇野市豊科南小学校
・ミルクパン
・ウインナー
・海藻サラダ
・ポテトスープ
・牛乳

両校の給食のメニューは対照的だ。

*****

昨日(9日)の早朝、NHKのラジオ深夜便で教育・食育アドバイザーの大塚 貢さんの話を聴いた(明日へのことば  「食事から変えよう子どもたちの暮らし」 )。

大塚さんは長野県の旧真田町(現上田市)の元校長・元教育長で、荒れた学校を「給食改革」と「花壇作り」で非行ゼロの学校に再生させた方。番組でその経験を語っていた。

大塚さんがラジオ番組で語ったことと同じ内容の講演録が『変な給食』幕内秀夫/ブックマン社に紹介されているので以下、同書を参考にして書く。

今から20年くらい前、大塚さんが校長として赴任した中学校はとても荒れていたそうだ。その原因が食事にあるのではないかと考えた大塚さんは生徒の食生活を調査したという。その結果、3割以上の生徒が朝食抜き、食べた場合でも菓子パンやジュース、ハムやウインナーだけといった実に貧しい食卓の実態が明らかになったそうだ。


保護者にコンビニ弁当やカップラーメンではなく、カルシウムやミネラルの多いもの食べさせてください。血液がきれいになり前頭葉の血行が良くなるから、と訴えたそうだ。だが、保護者は変わらなかったそうで、給食から変えるしかないと考えて給食改革をしたという。

パンから米飯に変え、おかずも米飯に合う青魚と野菜を豊富にするように変えたそうだ。生徒や教職員、保護者は和食献立に大反対だったそうだが、大塚さんの思いを理解する栄養士が、30代(記憶がはっきりしないが)で心筋梗塞で亡くなった人の心臓を病院から借りてきて生徒たちに見せて、食事の大切なことを説いたこともあったという(番組では長野県内の中・高生は3割だったか、4割だったか覚えていないが、生活習慣病予備軍だという驚きの事実が紹介された)。

生徒や教師、保護者は次第に食べ物が身体や心に及ぼす影響に関心を持ち始め、ご飯給食を支持する人が増えていったという。今やサンマの甘露煮が一番人気のメニューなんだとか。お米は地元の無農薬か低農薬ののもに切り替え、玄米も混ぜているという。給食食材の95パーセントが地元産とのこと。

学力も向上したそうで、CRTテストの成績が全国平均をかなり上回るようになったという。本を読む生徒も増えて、全国作文コンクールで入賞する生徒が出てきたり、合唱コンクールでも好成績を収めるなど、生徒はどんどん変わっていったそうだ。

我が意を得たり という思いで早朝のラジオ番組を聴いた。


塩尻市の学校給食について 

松本市の学校給食について

安曇野市の学校給食について

↑ クリック



 


― なぜ半鐘をまん中に吊るしてないのか?

2013-04-09 | A 火の見櫓っておもしろい

  


東筑摩郡麻績(おみ)村の火の見櫓 

■ 半鐘が屋根下の端に吊るしてあるのはなぜでしょう? 消防団員が見張り台に立って半鐘を叩くときのことを考えれば分かります。半鐘がまん中に吊るしてあると叩きにくいからです。

それ程広くない見張り台に立って半鐘を叩くわけですが、この火の見櫓の場合、信号表示板を正面に見て、見張り台の左側に立って右手で叩くことになるでしょう(右利きの場合)。右手に木槌を持ったつもりになってエア半鐘叩き(?)をしてみてください。半鐘が右側に寄っていないと叩きにくいことは容易に分かりますよね。

もちろん、半鐘を屋根下のまん中に吊るしてあることもあります。見張り台を櫓の中心からずらしてあるものもあります。見た目は共に中心からずれていないで、まん中にある場合が最もいいです。

見た目の美しさか半鐘の叩きやすさか・・・。


この火の見櫓は2回目の紹介です。


「螢草」

2013-04-07 | A 読書日記



■ 新年度の読書は葉室 麟の『螢草』双葉社でスタートと決めていた。で、昨晩(6日)読んだ。涙小説を人前で読むのはできれば避けたい。

今日は日曜日。雨の中、朝から力仕事をして腰が痛い・・・。もう若くはない。いや、気持ちはまだ若いが体が・・・。ちょっと無理をしすぎたかもしれない。夕方、テレビを見ながらビール。逆か、ビールを飲みながらテレビを見た、ってどっちでもいいや。

葉室 麟という作家が考える「人生、こう生きるべし」をひとりの若い女性を主人公に描いている。ストーリーはシンプル。これは映画化して欲しい作品だ。

で、キャスティング。16歳で奉公に出た主人公の菜々には誰がいいか・・・。若い女優の名前はあまり知らないが最近ようやく覚えた剛力彩芽、イメージは比較的近い。でも彼女ではキャラが濃すぎ、個性が強すぎるような気がする。では他に誰か・・・。

石川佳純! そうだ彼女がいるじゃないか。おおピッタリ! なんてことを書き出しちゃって、アルコール効果かな?別にいいけど。

父親を切腹に追い込み、奉公先の市之進に罠を仕掛けて流罪に追い込んだ憎き悪、轟平九郎。仇討で轟と対峙するときの菜々の眼、それには石川佳純が試合(って彼女は卓球の選手、念のため)で相手のサーブを受けるときのあの眼が相応しい。

では、菜々を自分の妹のように思い、優しく接してくれた奥方様の佐知(なかなかいい名前だ)には誰がいいか?才色兼備な女性・・・、 和服が似合いそうな女性となると・・・、誰? 若いころの竹下景子、いいかも。

では肝心の市之進(って菜々の奉公先の当主、佐知の夫)は誰? 菜々が次第に惹かれていく若き俊才には誰がいいだろう・・・。浮かんでこないな~。

**「おかげで助かりました。本当にありがとうございます。だんご兵衛さんに死神先生、そしてお骨さんと駱駝の親分―」**(259頁) これは菜々の台詞。落語の人情噺に出てきそうな個性豊かな脇役が出てきて、菜々を何かとサポートしてくれるのだ。映画ではこの人たちに誰を充てるか・・・。

ふたりの幼い子どもを残して母親の佐知は亡くなっている。**「正助、とよ、父上と菜々の言うことを、よく聞いて、いい子にするのですよ」**(111頁)と言い残して。その後、父親も囚われの身となってしまう。

菜々は残されたふたりの子ども、正助ととよの面倒を一生懸命みる。そして生活費を稼ぐために大八車に野菜を載せて売り歩く。この姿を思うと涙が出る。あの石川佳純が・・・。

*****

**「だって、菜々に会いに行こうとするのを、邪魔するんだもの」
口を尖らす正助を、とよが、ちょっぴり睨み、諭すような口振りで言った。
「兄上、菜々のことは違う呼び方をしなければいけません。父上がそうおっしゃったではありませんか」**

ふたりのこどもは菜々によくなついているし、菜々は市之進に心惹かれていた。ものがたりは安堵のハッピーエンド。

よかった・・・。

涙、涙・・・。