庚申碑 長野県青木村にて 撮影日 130409
■ 干支は十干と十二支の組み合わせで日や年を表す方法ですが、十干、すなわち、甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(へい、ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと)は話題には挙がりませんね。ですから、今年の干支は? と訊かれれば、巳年と誰もが答えるでしょう。癸巳(みずのとみ)と答える人は100人いや1,000人に訊いて1人いるかどうか・・・。
でも丙午(ひのえうま)という年があることは今でも知られていますし、甲子園球場の名前は甲子(きのえね)の年に建設されたことに由来することも知られています。
日々の干支が表示されているカレンダーは、今ではほとんど見かけなくなりました。でも土用の丑(うし)の日には鰻を食べる習慣がありますし、妊婦さんが妊娠5ヶ月目に入った戌(いぬ)の日に腹帯を巻いて安産を願う風習が今でも残っています。このように日々の暮らしには干支と関わりがまだ残っています。
十干と十二支の組み合わせだと、同じ組み合わせの年になるのに60年かかります(10と12の最小公倍数の60)。60年かかって同じ干支に還る。これが「還暦」です。今年還暦という人は60年前の癸巳(みずのとみ)の年に生まれたんです(いかにも前から知っていたかのような書きぶりですが、最近調べて十干が癸だと知りました)。
前置きが長くなりました。
庚申と文字書きされた石碑のことを書くつもりでした。写真の石碑は先日青木村で見かけたものです。同行のSさんから庚申って何ですか?と訊かれて、前述した干支のことから始めて、次のような説明をしました。
ここからは既に書いたことの繰り返しですが、これは古い道教から起こった考え方です。60日ごとに巡ってくる庚申(こうしん、かのえさる)の晩になると、体の中に宿っている三尸(さんし)の虫が本人の眠っている間に身体からぬけだして天に昇り、天帝にその人の罪やあやまちを報告するので寿命が縮められてしまうということで、それなら眠らないでいようと、夜を徹して宴を催したりしたという、平安時代の貴族のならわしが始まりだと手元の資料(*1)に説明されています。同様の説明がウィキペディアにもあります。
松本平では(他の地域でもおそらく同じでししょうが)、江戸時代中期以降に庚申講(私の地元では「おこうしんさま」と呼ばれていました)が組織され、生活互助会のような役割を果たしていたわけです。庚申碑も建てられるようになりました(庚申の年に建てるのが原則)。
庚申の日の夜、女性だけで当屋(当番の家)に集まって、今でいう女子会をすることもあったでしょう。本来の宗教的なというか、信仰的な意味合いは次第に薄れて、私の子どものころには既に親睦会のようなものになっていたと思われます。
共に朝日村西洗馬に祀られている庚申碑
上の文字碑は万延元年(1860年)の建立で、調べてみるとこの年は庚申の年です。
下は青面金剛像、これも庚申碑です。建立は昭和55年、やはり庚申の年です。ちなみにこのデザインは同級生のお母さんの作品です。
*1 『安曇野 道祖の神と石神様たち』西川久寿男/穂高神社