■ 久しぶりに小説を読んだ。
芥川賞を受賞した村田沙耶香の『コンビニ人間』は18ヵ国語に翻訳することが決まっているそうだ。このことを知ったのは何日か前の新聞広告だった、と思う。芥川賞受賞作ということよりも18ヵ国語に翻訳される作品だということで読んでみようと思った。
コンビニで働く人たち、コンビニを利用する人たちの人間模様、そんな予見は外れていた。
主人公の古倉恵子は36歳、独身。コンビニバイト歴18年。
少し奇妙がられる子どもだったことが、次のような出来事で語られる。幼稚園のころ、公園で死んでいた小鳥を母親のところへ持っていき、「お父さん、焼き鳥好きだから、今日、これを焼いて食べよう」と言ったり、小学校に入ったばかりの時、男子のけんかを止めようと、スコップ持ち出して頭を殴ったりした。
こんなことを知ると、恵子は「普通」の人ではないな、と思う。両親は「どうすれば『治る』のかしらね」と相談もする。
やがて恵子は大学生になり、コンビニでアルバイトを始める。**なぜコンビニエンスストアでないといけないのか、普通の就職先ではだめなのか、私にもわからなかった。ただ、完璧なマニュアルがあって、「店員」になることはできても、マニュアルの外ではどうすれば普通の人間になれるのか、さっぱりわからないままなのだった。**(26頁)
事細かに決められたマニュアル通りに振舞い、行動することでしか社会の枠の中に留まることができない恵子。
コンビニでアルバイトを続ける恵子の前に現れた白羽という男も「普通」ではなかった。
**「こういうのって、男の本能に向いている仕事じゃないですね」白羽さんがぼそりと言った。「だって、縄文時代からそうじゃないですか。男は狩りに行って、女は家を守りながら木の実や野草を集めて帰りを待つ。こういう仕事って脳の仕組み的に、女が向いている仕事ですよね」**(55頁)
実は白羽という男も社会の枠の中に自分を納めることができないことに悩み、コンプレックスを抱いていたのだった。
やがてこのふたりが同居生活を始めると世間は「普通」のふたりと見る。彼女の妹は**『お姉ちゃん、本当によかったね。ずっといろいろあって苦労してきたけど、全部わかってくれる人を見つけたんだね・・・!』と感動する。
だが、ふたりが同居するアパートを訪ね、生活ぶりを知った妹は**「お姉ちゃんは、いつになったら治るの・・・?」(中略)「もう限界だよ・・・どうすれば普通になれるの? いつまで我慢すればいいの?」**(130頁)と泣き、顔を伏せる。
二人も「普通」の生活をしようとして、恵子は白羽と面接会場に向かうが・・・。
**「いえ、誰に許されなくても、私はコンビニ店員なんです。人間の私には、ひょっとしたら白羽さんがいたほうが都合がよくて、家族や友人も安心して、納得するかもしれない。でもコンビニ店員という動物である私にとっては、あなたはまったく必要ないんです」**(159、160頁) ふたりは別れる。
**「だから現代は機能不全世界なんですよ。生き方の多様性だなんだと綺麗ごとをほざいているわりに、結局縄文時代から何も変わっていない。少子化が進んで、どんどん縄文に回帰している。生きづらい、どころではない。ムラにとっての役立たずは、生きていることを糾弾されるような世界になってきてるんですよ」**(106、107頁)
この白羽の発言は作者の現代社会に対する認識を示している。この小説のベースにはこのような社会の状況に対する批判的なスタンスがあるだろう。で、普通の人間とは何か、普通の暮しとは? 「普通」とは何か?を読者に問うている。
「普通」に自分を納めることができない者はどう生きて行けばよいのか。コンビニ人間に示されるような社会のマニュアルに従う生き方しかないのか・・・。
これは実によくできた実験小説だ。
0914加筆