史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

淡路

2016年11月03日 | 兵庫県
(普門寺)


普門寺

 野球大会二日目は、もちろん最初から勝ち抜く見込みもなく、朝からレンタカーを借りて淡路島をドライブする計画であった。JR明石駅でレンタカーを調達すると、明石海峡大橋を経て島に渡る。


田村平一郎忠親碑


従五位田村平一郎忠親之墓

 普門寺の田村平一郎の顕彰碑と墓である。
 田村平一郎は、文政六年(1823)の生まれ。父は酒造業を営む田村平五郎。つとに尊攘の志を抱き、安政年間藩主蜂須賀斉裕が、領民中より銃火の心得のある者を選んで、猟師隊を組織した時、率先して同志を募り一隊を編成して自ら隊長となり、ついに隊士三千人を得た。世子蜂須賀茂韶が淡路に立ち寄った際、三条実美に上書して、淡路防護の必要性を述べ、世子を総督に推戴し、農兵を率いてこれに当たらせることを建議した。当時、藤本鉄石、松本謙三郎ら志士が淡路に往来する者が多く、平一郎と肝胆相照らすところがあった。文久三年(1863)八月、大和天誅組義挙に平一郎も加わろうとし、密かに小厨子に父母の位牌を納め、これを携えて戦場に赴かんとしたが、突如洲本奉行所に捕えられ投獄された。五年間の獄中生活の後、慶応四年(1868)三月、赦されて出獄したが、囚中病にかかり、明治四年(1871)、四十九歳にて没した。

(レトロ体験村)


岡田鴨里先生誕生之宅址


砂川家

 儒者岡田鴨里(僑)の生家は、淡路市王子の砂川家である。父は庄屋を務める砂川佐一郎で、文化三年(1806)、その四男に生まれた。のち三原郡榎列字掃守(かもり)の岡田氏を継いで岡田鴨里と名乗った。
 砂川家は往時の姿をとどめており、少し前までレトロ体験村という名称で公開されていたが、現在はどうやら閉鎖中である。縄が張ってあり敷地内に立ち入ることはできない。建物も手入れされないまま放置されているが、何とか維持保存してもらいたいものである。

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洲本

2016年11月03日 | 兵庫県
(ウェルネスパーク五色)


日露友好の像

 洲本市五色町都志は、あの高田屋嘉兵衛が生まれ育った土地である。ウェルネスパーク五色は、テニスコートやオートキャンプ場、野外コンサート会場、温泉施設などを併設する広大な複合施設である。園内には郷土の生んだ英雄高田屋嘉兵衛の顕彰館などがある。


高田屋顕彰館・歴史文化資料館

 顕彰館に入ると、早速大きなホールに案内され、上映時間十三分の「菜の花の沖」紹介DVDを見せていただくことになる。例によって、分刻みのスケジュールで史跡を回っていた私にとって、十三分は大きな時間のロスであったが、観客は一人しかおらず、館員から「是非、見て行ってください」と熱心に口説かれて、とても御断りすることはできなかった。平成十二年(2000)、NHKで放映された「菜の花の沖」は竹中直人が主演。ダイジェスト版を見ただけであるが、なかなか面白そうな雰囲気である。


高田屋嘉兵衛肖像


顕彰館の展示
リコルドと意見を交わす嘉兵衛


顕彰館の展示
菱垣廻船


リコルド肖像

 ディアナ号副艦長リコルドは、ゴローニン救出のために高田屋嘉兵衛と協議したロシア側の人物。


高田屋嘉兵衛顕彰碑

 日本の誇り
 高田屋嘉兵衛翁 此の地に眠る

顕彰碑は、時の総理大臣羽田孜の筆による。


高田屋嘉兵衛最初の埋葬地

 文政元年(1818)、事業を弟たちに譲り、郷里都志に引退した嘉兵衛は、都志八幡神社随神門の寄進や灌漑用井堰などの築造、都志港などの修築等郷土の開発に尽くした。文政十年(1827)、病のためその波乱に満ちた生涯を閉じ、ふるさとを見下ろすこの地に手厚く葬られた。葬儀は、都志の長林寺で執り行われたが、この地への葬送の列は、道中途切れることなく、まだなお寺の境内にあふれていたといわれる。

(多聞寺)


高田屋嘉兵衛翁墓碑


高誉院至徳唐貫居士

 この地域では、埋葬した墓とは別に「参り墓」がある「両墓制」となっている。多聞寺墓地には高田屋嘉兵衛の石造五輪塔型の墓があり、その正面に法名「高誉院至徳唐貫居士」と刻まれている。
 平成十一年(1999)、嘉兵衛の生誕二百三十年に際し、地元の人々がその偉業をたたえるために新しく大きな墓碑が建立された。

(高田屋嘉兵衛記念館)
 今回、淡路島の高田屋嘉兵衛所縁の地を歩いて、もう一度司馬遼太郎先生の「菜の花の沖」(全六巻)を読んでみようという気になった。書棚から「菜の花の沖」を取り出したのは恐らく三十年以上も前のことである。気に行った本は何度も繰り返し読む習癖を持つ私が一回しか読んでいないということは、当時あまり心に残らなかったということである。今度はどうだろう。


高田屋嘉兵衛記念館


高田屋嘉兵衛像

 高田嘉兵衛が生まれ育った屋敷跡に、現在高田屋嘉兵衛翁記念館が建てられている。この記念館には、嘉兵衛愛用の望遠鏡を始め、書簡や屋敷図、辰悦丸の模型などの資料が保存・展示されている。昭和五十四年(1979)の竣工。
 地元では毎年八月十五日に街を挙げて「高田屋嘉兵衛まつり」が開かれているそうである。


史蹟 高田屋嘉兵衛旧邸跡

 嘉兵衛が生まれた頃の屋敷は小さかったが、文化年間(1804~1816)に大規模なものに建て替えられた。母屋だけで九間半に五間、それ以外に七棟もあり、周りに高い塀を巡らせた屋敷の総面積は一八九二平方メートルに及んだ。


高田屋嘉兵衛顕彰碑

 屋敷跡に建てられた顕彰碑は、大正四年(1915)、都志の有志が中心となり、全国中等学校からの寄付金等、各方面の協力を得て建立されたもので、高さ六・三メートル、幅三メートル、厚さ〇・四五~〇・七五メートルという堂々たるものである。

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南あわじ

2016年11月03日 | 兵庫県
(福良八幡神社)
 南あわじ市福良まで来ると、淡路島も南端に近い。街の中心部に八幡神社がある。境内に護国神社があり、幕末から日清・日露戦争さらに第二次世界大戦に至る戦争で英霊となった三百五十四柱を祀っている。


福良八幡神社

 護国神社の祠の側に三百五十四名の名前が刻まれた石碑が建てられているが、知った名前は福浦元吉だけである。
 福浦元吉は文政十二年(1829)、淡路国三原郡福良浦に生まれた。早くから同国の先輩古東領左衛門に薫陶を受け、また剣客梶浦四方之助について刻苦修練した。領左衛門が京摂に出て奔走すると、常にこれに随伴してこれを助け、同志の間に寵用された。文久三年(1863)、天誅組義挙の際、元吉も参加して専ら藤本鉄石に近侍してその行動を援け、各地に奮戦して武勇を馳せたが、鷲家口に至って和歌山藩の大兵に包囲され、双刀を振って鉄石を援け、力戦数人を斬ったが、群槍の中に斃れた。年三十五。


護国神社

(賀集八幡神社)
 賀集八幡神社の参道途中に南淡町歴史民俗資料館という施設がある。どうやらかなり以前に閉館してしまったようで、建物の周りは雑草が延び、建物もメンテナンスされている様子が感じられない。その敷地内に増井文太の碑が建てられている。


賀集八幡神社

 増井文太は、武田万太夫、田村平一郎と同じく庄屋の出で、彼らとともに猟師隊を編成した。


志士増井文太翁之碑

(栄福寺)


栄福寺

 栄福寺に岡田鴨里の墓を訪ねた。栄福寺の墓地は、霊園として整備され古い墓石は見当たらない。裏山にわずかに古い墓石が残るが、そこには鴨里の墓はない。裏山を遭難するんじゃないかというくらい歩き回って、終に蜘蛛の巣だらけになって車に戻った。
「ひょっとしたら」
と思って、探した道をはさんで反対側の山の中に、周囲を竹柵で囲まれた一族の墓があった。三十分以上、炎天下を歩いて汗だくになった。


岡田鴨里墓

(岡田鴨里旧宅)


岡田鴨里先生邸宅趾

 栄福寺から数百メートル離れた住宅街の中に邸宅趾を示す石碑が建てられている。

(養宜館跡)
 養宜館とは、暦応三年(1340)、足利尊氏に淡路平定を命じられた細川師氏が、立川瀬の戦いで南朝方を破り、守護大名となった際に入った館である。養宜館は中世以来大土居と呼ばれ、南北朝時代から室町時代にかけて百八十年余りの間、七代にわたり細川氏の居館であり、政庁でもあった。永正十六年(1519)、七代尚春が阿波で三好勢に謀殺され、その後間もなく養宜館も廃されたといわれる。館は、東西百二十メートル、南北二百五十メートルの敷地の周りに、土塁と空濠をめぐらせた長方形の豪壮な構えであった。現在は土塁と空濠がわずかに残る程度である。


養宜館跡

 養宜館跡に一つの石碑が建っている。武田万太夫の顕彰碑である。


志士武田萬太夫翁碑

 武田万太夫は、文政八年(1825)三原郡福良の生まれ。武田民十郎の養子となった。安政年間、尊王攘夷運動が高まると、田村平一郎、増井文太らと率先して猟師隊を編成して、松本奎堂らと時節の到来を待ったが、文久三年(1863)天誅組の大和挙兵の前に同志とともに捕らわれて投獄された。四年半ののち、維新を迎え許されて出獄したが、家運振るわず、神戸に出て余生を送り、明治二十一年(1888)、六十四歳で病没した。

(大宮寺)
 大宮寺の本堂裏に天明志士紀念碑と天明志士之碑がある。


大宮寺


天明志士紀念碑

 天明志士とは、江戸時代中期の天明二年(1782)、世に縄騒動と呼ばれている百姓一揆が山東地区十二ヵ村の農民たちによって起こされたもので、一揆の指導者広田宮村の才蔵と山添村の清左衛門のことである。当時、悪天候と災害による凶作が打ち続き、農民は疲弊し、藩の財政もまた困窮した。そのため徳島藩では淡路仕置をして新法を設け、農民への収奪を強化した。なかでも「縄趣法」と称する縄供出令は灰縄上納の口碑、伝統を生んだほど苛酷なものであった。重税に耐えかねた農民たちは、旧暦五月三日から十五日にわたり新法の廃止を要求して蜂起した。その結果、要求は容れられたが、一揆の指導者であった才蔵と清左衛門は、天明三年(1783)二月二十三日、打首獄門となった。以来、島の各地では密かに両志士の霊を祀り、その事績を語り伝えてきた。近代になって島民有志により両志士の顕彰碑の挙が企てられ、明治三十年代に天明志士之碑と天明志士紀念碑が一揆ゆかりのこの地に建立された。


天明志士之碑

 天明志士之碑は、明治三十一年(1898)、板垣退助撰文、巌谷修(一六)の書。

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船橋 Ⅴ

2016年11月03日 | 千葉県
(旭三丁目共同墓地)
 播磨(兵庫県加古川市)で開かれる野球大会を一週間後に控え、「さすがに一度も練習せずに大会にのぞむのは如何なものか」ということになり、市川のグラウンドで練習することになった。八王子は小雨で、都内も強い雨であったが、どういうわけだか市川周辺は雨の気配がなく、私がグラウンドに着いたときには、既に練習が始まっていた。準備運動もそこそこにからだを動かしたのがいけなかった。ファーストに送球を投じた瞬間、腰に違和感を覚えた。三年振りのぎっくり腰である。すぐさま練習を中止したが、翌週の野球大会でプレーできるのか、黄信号が点った。
 このまま自宅に帰ったのでは、腰を痛めるために市川まで往復したことになってしまう。自動車を運転するのも苦痛であったが、船橋まで足を伸ばし、前回(確かもう五~六年前になるだろう)訪ねて発見できなかった旭三丁目墓地の撤兵隊士の墓に再挑戦することにした。


妙法青蓮院法進日明信士(撤兵隊士の墓)

 墓には法名と慶応四年四月六日という没年月日が刻まれているが、本名は伝わっていない。墓の主は、高橋家で自刃したため、今も高橋定右エ門家の墓所に置かれている。
 撤兵隊(さんぺいたい)とは、フランス式の伝習による幕府洋式銃隊砲隊で、慶応三年(1867)の夏、小栗上野介忠順(当時、歩兵奉行)の献策によって創設されたという。隊員は天領内の農家壮丁からなり、歩兵組に編成された。江戸開城直後、部隊の一部が脱走し、房総方面で反薩長の気勢をあげた。市川に集結した舞台は、やがて大鳥圭介の指揮下に入り、他の旧幕諸隊といっしょに北関東から会津、北海道まで転戦した。林忠崇の日記によると、その質は遊撃隊や伝習隊に比べ、著しく見劣りしたという。実際、脱走者も多かった。

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