(普門寺)
普門寺
野球大会二日目は、もちろん最初から勝ち抜く見込みもなく、朝からレンタカーを借りて淡路島をドライブする計画であった。JR明石駅でレンタカーを調達すると、明石海峡大橋を経て島に渡る。
田村平一郎忠親碑
従五位田村平一郎忠親之墓
普門寺の田村平一郎の顕彰碑と墓である。
田村平一郎は、文政六年(1823)の生まれ。父は酒造業を営む田村平五郎。つとに尊攘の志を抱き、安政年間藩主蜂須賀斉裕が、領民中より銃火の心得のある者を選んで、猟師隊を組織した時、率先して同志を募り一隊を編成して自ら隊長となり、ついに隊士三千人を得た。世子蜂須賀茂韶が淡路に立ち寄った際、三条実美に上書して、淡路防護の必要性を述べ、世子を総督に推戴し、農兵を率いてこれに当たらせることを建議した。当時、藤本鉄石、松本謙三郎ら志士が淡路に往来する者が多く、平一郎と肝胆相照らすところがあった。文久三年(1863)八月、大和天誅組義挙に平一郎も加わろうとし、密かに小厨子に父母の位牌を納め、これを携えて戦場に赴かんとしたが、突如洲本奉行所に捕えられ投獄された。五年間の獄中生活の後、慶応四年(1868)三月、赦されて出獄したが、囚中病にかかり、明治四年(1871)、四十九歳にて没した。
(レトロ体験村)
岡田鴨里先生誕生之宅址
砂川家
儒者岡田鴨里(僑)の生家は、淡路市王子の砂川家である。父は庄屋を務める砂川佐一郎で、文化三年(1806)、その四男に生まれた。のち三原郡榎列字掃守(かもり)の岡田氏を継いで岡田鴨里と名乗った。
砂川家は往時の姿をとどめており、少し前までレトロ体験村という名称で公開されていたが、現在はどうやら閉鎖中である。縄が張ってあり敷地内に立ち入ることはできない。建物も手入れされないまま放置されているが、何とか維持保存してもらいたいものである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/c9/6e35c5c7e52fe3243d68b7e9be2308b3.jpg)
普門寺
野球大会二日目は、もちろん最初から勝ち抜く見込みもなく、朝からレンタカーを借りて淡路島をドライブする計画であった。JR明石駅でレンタカーを調達すると、明石海峡大橋を経て島に渡る。
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田村平一郎忠親碑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/ba/4e3b7181d8a53b590bf71d777a4c76a0.jpg)
従五位田村平一郎忠親之墓
普門寺の田村平一郎の顕彰碑と墓である。
田村平一郎は、文政六年(1823)の生まれ。父は酒造業を営む田村平五郎。つとに尊攘の志を抱き、安政年間藩主蜂須賀斉裕が、領民中より銃火の心得のある者を選んで、猟師隊を組織した時、率先して同志を募り一隊を編成して自ら隊長となり、ついに隊士三千人を得た。世子蜂須賀茂韶が淡路に立ち寄った際、三条実美に上書して、淡路防護の必要性を述べ、世子を総督に推戴し、農兵を率いてこれに当たらせることを建議した。当時、藤本鉄石、松本謙三郎ら志士が淡路に往来する者が多く、平一郎と肝胆相照らすところがあった。文久三年(1863)八月、大和天誅組義挙に平一郎も加わろうとし、密かに小厨子に父母の位牌を納め、これを携えて戦場に赴かんとしたが、突如洲本奉行所に捕えられ投獄された。五年間の獄中生活の後、慶応四年(1868)三月、赦されて出獄したが、囚中病にかかり、明治四年(1871)、四十九歳にて没した。
(レトロ体験村)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/c9/45cd7424e626b76deaf6a8571fbab1d5.jpg)
岡田鴨里先生誕生之宅址
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/f1/0f8abe553abaf0030309d3bf43decbc7.jpg)
砂川家
儒者岡田鴨里(僑)の生家は、淡路市王子の砂川家である。父は庄屋を務める砂川佐一郎で、文化三年(1806)、その四男に生まれた。のち三原郡榎列字掃守(かもり)の岡田氏を継いで岡田鴨里と名乗った。
砂川家は往時の姿をとどめており、少し前までレトロ体験村という名称で公開されていたが、現在はどうやら閉鎖中である。縄が張ってあり敷地内に立ち入ることはできない。建物も手入れされないまま放置されているが、何とか維持保存してもらいたいものである。