史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

多摩川

2016年11月13日 | 東京都
(浅間神社)
 東急多摩川駅を降りて直ぐのところに浅間神社がある(大田区田園調布1‐55‐12)。参道を上ると、その途中に勝海舟直筆食行身禄之碑がある。


浅間神社


勝海舟筆 食行身禄之碑

 浅間神社は少し高い場所にあり、ここから多摩川方面の眺望は素晴らしい。


夕暮の多摩川
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西大井 Ⅲ

2016年11月13日 | 東京都
(養玉院如来寺)


誠心院秋嶽澄照居士(佐須伊織の墓)

 対馬藩主宗氏の墓地の裏側に、対馬藩主の墓が並ぶ一角があり、その中に藩内の抗争で暗殺された佐須伊織の墓がある。この墓のためだけに西大井の養玉院如来寺を再訪した。
 佐須伊織は、対馬藩江戸詰家老。宗氏御三家のうち上席の家に享和二年(1802)生まれた。佐須と杉村は同一家で、代ごとに苗字を代える家風で、父も江戸詰家老をつとめた杉村但馬功加。嘉永・安政の間、井伊直弼、久世広周、安藤信正に謀り対馬を幕府の直轄とし、朝鮮通交は対馬従来の経験をもってこれに与し、宗氏を和泉十八万石に移封しようと謀ったが、異変のために成らなかった。文久二年(1862)八月、宗家継承の問題で、反対派四十四士のために暗殺された。年六十一。

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新馬場 Ⅵ

2016年11月13日 | 東京都
(品川神社)


勝海舟筆 天地開闢大日本大社廻

 勝海舟筆と山岡鉄舟筆の二つの石碑を見るため、品川神社を再訪した。品川神社には、海舟が「葵神輿」と名付けた神輿も保存されており、海舟との所縁が深いようである。鳥居の右手には、勝海舟の筆による石碑と、その直ぐ近くに山岡鉄舟書の石碑がある。


勝海舟筆 葵神輿


山岡鉄舟筆 

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越中島

2016年11月13日 | 東京都
(調練橋公園)
 越中島2‐16‐13に所在する公園は、調練橋公園と名付けられているが、見渡しても橋らしいものは無い。わずかに交差点の信号機の横に「調練橋」という表示があるのみである。


調練橋


調練橋公園

 安政二年(1855)以降、越中島では軍隊の調練、砲術の演習のため幕府の調練場として利用され、明治以降も陸軍の演習場として使われた。大正十三年(1924)にこの場所に橋が架けられた時、調練橋と名付けられた。

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清澄白河 Ⅲ

2016年11月13日 | 東京都
(本立院)


本立院

本立院本堂の前に間宮林蔵先生之瑩域と記された石碑がある(江東区平野1‐14‐7)。境内に林蔵の墓はなく、ここから東へ数分歩いた場所にある。


間宮林蔵先生之瑩域

 (間宮林蔵の墓)


間宮林蔵蕪崇之墓

 間宮林蔵の墓は、平野二丁目の交差点の北西の一角にある(江東区平野2‐7‐8)。
 間宮林蔵は、安永九年(1780)(一説に安永四年とも)、常陸国筑波郡上平柳村に生まれた(現・つくばみらい市)。名は倫宋(ともむね)といい、伊能忠敬に測量を学び、寛政十二年(1800)、幕府の蝦夷地御用雇となり、蝦夷をはじめとする北地探検と測量に従事した。文化五年(1808)、幕命により松田伝十郎とともに樺太を探検した林蔵は、翌年七月には単身で樺太からシベリアに渡って沿海州に入り、黒竜江(アムール川)を遡りデレンに達した。この十五か月に及ぶ探検の結果、樺太が島であることが明らかになった。後に間宮海峡と命名される海峡を欧州人にさきがけて発見したことにより、地理学者、探検家として世界的に有名になった。天保十五年(1844)、深川蛤町の家で没した。

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神楽坂 Ⅱ

2016年11月13日 | 東京都
(清隆寺)


清隆寺

 神楽坂の清隆寺は、勝海舟の菩提寺である(新宿区赤城元町1‐27)。海舟の父小吉も当初はこの寺に葬られたが、のちに青山霊園に改葬された。


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千歳烏山 Ⅲ

2016年11月13日 | 東京都
(多聞院)


多聞院

 多聞院には、館林藩士大久保鼎、明治の漢詩人本田種竹の墓がある(世田谷区北烏山4‐12‐1)。


舊館林藩 従五位大久保鼎墓

 大久保鼎は、文政七年(1824)の生まれ。初め新助と称した。少壮より志気勇烈、武技にも優れた。嘉永以後の幕政の失策を慷慨し、藤田東湖らと交わり尊王攘夷を主張した。嘉永六年(1853)、米艦渡来の時、浦賀に潜行し、外人の無礼を見て憤激し、これを刺さんとして同志に慰諭された。文久三年(1863)五月、長州の下関外艦砲撃事件を機とし、幕府征長の議起こるや、攘夷は朝旨なりとし、また藩主秋元志朝と兄弟たる長州藩世子毛利定広(元徳)の冤罪を除かんとして、同年十一月、同志九人と断髪決死を誓い、家老岡谷瑳磨介を糾弾。藩主の上京、公武斡旋を促した。この時、随行を願ったが、赦されず、墓石を刻んで上京せんとする途次、箱根で捕えられ、府下角筈の藩邸に幽囚され、ついで切腹を命じられた。元治元年(1864)四月没。年四十一。

(存明寺)


存明寺

 存明寺(ぞんみょうじ)に、坂本龍馬の妻、楢崎龍の弟、楢崎太一郎の墓があるというので、墓地を歩いてみた(世田谷区北烏山4‐15‐1)。墓石を一つひとつ確認して歩いた結果、楢崎家の墓を一つだけ発見した。ただし、これが太一郎の墓との確証は得られていない。墓石側面にある「秀嶺院釋一道白隠居士」が太一郎のものか。


先祖代々之墓(楢崎)

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調布 Ⅱ

2016年11月13日 | 東京都
(祇園寺)
 調布市佐須2‐18‐1の祇園寺の明治期の住職は、板垣退助率いる自由党の党員であったため、明治四十一年(1908)に当寺で自由民権運動殉難者慰霊法要を勤修し、大演説会が催されました。その時、板垣退助の手によって植えられたのが、二本の赤松である。この二本の松は現在も天高く聳え、「自由の松」と称されている。


祇園寺


自由の松
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高尾 Ⅴ

2016年11月13日 | 東京都
(関東綱五郎住宅跡)


侠客 関東綱五郎住宅跡

 高尾駅を出て、国道二十号線を高尾山方面に進み、上椚田橋を越えると右手の電信柱に隠れるように小さな石碑が建てられている(八王子市高尾町1915)。これが清水次郎長の子分となった関東綱五郎の住宅跡である。
 関東綱五郎は、本名を鈴木綱五郎といい、実家は八王子千人同心であった。慶応二年(1866)四月六日、有名な荒神山の決闘では、大政、小政とともに壮絶な喧嘩に参加した。のちに京都で火薬商を営み、晩年は故郷に戻った。明治十九年(1886)、この地で亡くなった。享年六十三。

(大光寺)


大光寺

 高尾駅のすぐ南側、京王線のホームから見下ろせる位置に大光寺がある(八王子市初沢1352)。大光寺の庫裏は、関東綱五郎こと鈴木綱五郎の住宅を移築したものである。


大光寺庫裏


義顕院阿仙道翁居士(関東綱五郎の墓)

 墓地のしだれ桜のちょうど下の鈴木家の墓地に、関東綱五郎の墓がある。左側面には綱五郎とその妻セキの没年月日、右側面には綱五郎の事績が記されている。この日は秋雨前線の影響で小雨が降る悪天候であった。晴れた日にもう一度訪問したい。

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