史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

千葉

2016年11月25日 | 千葉県
(千葉縣護國神社)
 既に四十七都道府県を踏破した私であるが、実は県庁所在地でいうと、千葉市の史跡だけが未訪問となっていた。現在の千葉市の市域の大半は、佐倉藩の領地であったが、特に藩政時代の遺跡が残っているわけでなく、積極的にここを訪ねる理由がなかったのである。もちろん、何度も通過はしているのだが…。


千葉県護国神社

 この日は東金を訪問した帰りに千葉市内の護国神社に立ち寄ることにした。この神社は、明治十一年(1878)、初代県令柴原和が発起となり、千葉県庁公園内に千葉県招魂社として創建されたのに始まり、昭和四十二年(1967)現在地に遷移したものである。戊辰戦争、西南戦争から大東亜戦争に至る戦乱に命を捧げたみたまが祀られている。戊辰戦争で戦死した佐倉藩の安達直次郎(慶応四年閏四月羽前村山にて戦死。二十九歳)以下が当神社の祭神となっている。

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東金 Ⅱ

2016年11月25日 | 千葉県
(本漸寺)


本漸寺

 一か月以上前に野球の練習で発症した腰痛がなかなか引かない。意を決して休みをとって、病院に行った。腰にブロック注射を打ってもらったところ、ウソのように痛みは消えた。
 せっかくの休みなので、そのまま電車に乗って千葉方面に向かった。平日の昼間は本数が少なく、千葉から大網経由で東金まで意外と時間を要する。東金駅を降りた時には午後二時半を過ぎていた。
 駅から徒歩十分足らずのところに八鶴湖(はっかくこ)がある。桜の名所で春には花見客で賑わうらしい。湖畔に本漸寺がある。


大野家之墓

 本漸寺は、もとは市内の田間という場所にあったが、大永元年(1521)酒井定隆が城を東金に移した際、一緒に引っ越し現在地に建てられた。墓地に大檀那酒井氏一類の墓がある。徳川家康が鷹狩に来た際には、ここに宿泊したといわれ、境内に「お手植えみかん」が残されている。
 私の目当ては、当寺にあるという豪商大野伝兵衛の墓である。八代目大野伝兵衛は、天保元年(1830)、東金の生まれ。文久初年、所有する山林二十余町歩を開発し、茶の栽培団地を造った。宇治の製茶技術を移入し、職工数十人を使って企業化に成功した。さらに明治に入ると、ウォルシーボー商会を通じ、本邦で初めて米国への輸出の道を開いた。今では関東のお茶というと、狭山茶が有名であるが、当時は東金茶が最大のブランドであった。伝兵衛は、地方の窮民に養蚕業を指導し、家伝の妙薬をコレラ患者に無償で供給した。明治九年(1876)、四十七歳にて没。
 佐藤尚中(舜海)の二男哲次郎がのちに大野家を継ぎ、明治三十三年(1900)には東金で大野銀行を設立したが、大正末年破産・廃業となった。
 伝兵衛の墓を探して墓地を歩き回った。大野家の墓は複数見つかったが、大野伝兵衛家のものと特定できなかった。一応、一番大きな墓の写真を参考として掲載しておく。

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