史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

両国 Ⅴ

2016年11月12日 | 東京都
(江戸東京博物館)
 三年振りに江戸東京博物館を訪ねた。この日は武蔵野市で野球の試合があった。四点を先行されたが、相手のエラーなどもあって追い付き、一瞬接戦となったものの、その後、滅多打ちにあってコールド負けとなった。外野を守っていた私は、大忙しで走り回るはめになり、試合が終わったときにはエネルギーを使い果たしていた。気力を振り絞って、野球の道具を担いで、両国へ向い江戸東京博物館を目指した。
 この日、江戸東京博物館では特別展示「よみがえれ、シーボルトの日本博物館」展と常設展示室では「山岡鉄舟と江戸無血開城」が開かれており、この二つの展示を見ようと思ったら、この週末を逃すとチャンスはない。

 シーボルトの展示(平成二十八年(2016)九月十三日~十一月六日)は、シーボルトが日本から持ち帰ったコレクションが里帰りしたものである。これを見ると、シーボルトの興味は日本の地理から風俗、動植物、漆器、陶器、玩具に至るまでとてつもなく幅広いことが分かる。シーボルトは持ち帰った品々で、日本博物館を開く野心を抱いていた。見たこともない文化・習俗と精緻な工芸品を目の当たりにすれば、人々は驚嘆するに違いない。愛する日本をヨーロッパに紹介したいという一心で、様々な品々を持ちだしたのであろう。帰国したシーボルトは、ライデン、アムステルダム、ヴュルツブルク、ミュンヘンの各都市において日本展示を開いた。シーボルトの行った日本展示は、のちに万国博覧会における日本紹介や、ジャポニズムによる日本趣味に先駆けて試みられた、初めての日本展示であった。シーボルトは安政六年(1859)から文久二年(1862)の間、二回目の来日を果たしたが、この時持ち帰った民俗学的資料は、彼の企図した日本展示に加えるという明確な目的のもとに収集されたものであった。しかし、シーボルトは帰国四年後の1866年、志半ばにして、ミュンヘンで日本博物館の開設準備中に七十歳で死亡した。


本山白雲作 勝海舟胸像

 常設展示の企画展示のテーマは山岡鉄舟である(平成二十八年(2016)八月十一日~九月二十五日)。鉄舟の展示室の前に勝海舟の胸像が置かれている。高村光雲の弟子で、桂浜の坂本龍馬像の作者として有名な本山白雲の作。この胸像は、かつて東京都議会議長室に飾られ、その後議会内で保管されていたものである。晩年の海舟の容貌を伝えるリアルな作品である。


江戸東京博物館常設展示
朝野新聞社

 江戸東京博物館の五・六階は、常設展示である。江戸をテーマとしたショーが開かれており、その観衆の大半は外国からの観光客である。
 東京と改称された頃の街の風景が再現されていて、その中に銀座四丁目に所在していた朝野新聞社がある。朝野新聞は、明治七年(1874)に創刊され、社長の成島柳北、主筆の末広鉄腸らが新政府を強烈に批判し、人気を博した。当時、銀座四丁目には、朝野新聞を始め曙新聞、東京横浜毎日新聞など、代表的な政論新聞が社屋を構え論陣を張った。


仙台藩船着場

 江戸東京博物館の三階は、広いスペースになっており、その一角に汐留で発掘された仙台藩船着場の石垣が保存展示されている。

(緑町公園)


津軽藩上屋敷跡

 北斎通り沿いの緑町公園辺りは、津軽藩上屋敷跡である(墨田区亀沢2‐7‐7)。私がこの地を訪れた時、公園は工事中であった。緑町公園の西側が江川太郎左衛門終焉之地である。

コメント
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