(法要寺)
法要寺の岡安喜平次の墓の傍らに箱館戦争の関係者の慰霊墓があるという情報を竹さんよりいただいたので、改めて法要寺を訪ねた。情報のとおり、岡安喜平次の墓の横に「函館戦死菩提」と刻まれた墓碑がある。側面に名前が確認できたのは、中島三郎助、伊庭八郎、菅沼弥兵衛の三名。正面にも法名らしきものが確認できるが、個人名の特定はできない。
函館戦死菩提碑
(鴻巣宿)
鴻巣は、中山道の宿場町であった。旅籠が五十八軒もあったというから、比較的大きな宿場であった。現在は往時の建物などは残っていないが、駅前に旧街道が通じ、その両側に商店街が続く。往時の賑わいを感じることができる。
鴻巣本陣跡
和宮東下の際には、文久元年(1861)十一月十二日、鴻巣にて昼食をとっている。
法要寺の岡安喜平次の墓の傍らに箱館戦争の関係者の慰霊墓があるという情報を竹さんよりいただいたので、改めて法要寺を訪ねた。情報のとおり、岡安喜平次の墓の横に「函館戦死菩提」と刻まれた墓碑がある。側面に名前が確認できたのは、中島三郎助、伊庭八郎、菅沼弥兵衛の三名。正面にも法名らしきものが確認できるが、個人名の特定はできない。

函館戦死菩提碑
(鴻巣宿)
鴻巣は、中山道の宿場町であった。旅籠が五十八軒もあったというから、比較的大きな宿場であった。現在は往時の建物などは残っていないが、駅前に旧街道が通じ、その両側に商店街が続く。往時の賑わいを感じることができる。

鴻巣本陣跡
和宮東下の際には、文久元年(1861)十一月十二日、鴻巣にて昼食をとっている。