(矢方池)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/ca/ff9d4eefbed85065d3d4eed18197cf8b.jpg)
矢方池
筑上郡上毛(こうげ)町の矢方(やかた)池は、度重なる干害に対処するため、高橋庄蔵が私財を投じて築造した貯水池である。庄蔵は、天保七年(1836)に生まれ、十四歳で庄屋代役、十六歳のとき野田村庄屋見習い、嘉永五年(1852)、十七歳のとき、蔵春園に入門した。明治三年(1870)、三十五歳で岸井手永大庄屋となった。庄蔵がため池の築堤を計画して、事業を興したのは明治十一年(1878)のことである。当時の感覚では、あまりに荒唐無稽な計画に、周囲の反応は冷ややかであった。しかし、庄蔵翁は農民を旱魃の被害から救うにはこれしかないと信じ、粘り強く近隣二十八ヵ村を説得し、膨大な私財を投じて事業を推進した。時に物笑いの種にされ、時に中傷を受けることもあったという。明治二十四年(1891)、庄蔵が五十六歳で他界した後、この事業は八幡小太郎(黒土村長)に引き継がれ、完成を見たのは丙池が明治二十一年(1888)、乙池は明治二十二年(1889)、難工事が続いた甲池は明治三十三年(1900)のことであった。「人間の偉さ」とか「人生の尊さ」というものは人それぞれ尺度があるし、一概に誰が偉いといえるものではない。たとえば明治時代に中央政界で国創りに生命を賭した人たちも非常に偉い人ばかりだと思うが、高橋庄蔵のように地域のために自分の生命財産を擲った無名の人物も同じように偉いと思ったので、ここに紹介したものである。
高橋庄蔵翁遺髪埋祀處
矢方池碑
高橋庄蔵翁の遺髪碑と庄蔵を祀る矢方池神社が、矢方池を見守るように建てられている。
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矢方池
筑上郡上毛(こうげ)町の矢方(やかた)池は、度重なる干害に対処するため、高橋庄蔵が私財を投じて築造した貯水池である。庄蔵は、天保七年(1836)に生まれ、十四歳で庄屋代役、十六歳のとき野田村庄屋見習い、嘉永五年(1852)、十七歳のとき、蔵春園に入門した。明治三年(1870)、三十五歳で岸井手永大庄屋となった。庄蔵がため池の築堤を計画して、事業を興したのは明治十一年(1878)のことである。当時の感覚では、あまりに荒唐無稽な計画に、周囲の反応は冷ややかであった。しかし、庄蔵翁は農民を旱魃の被害から救うにはこれしかないと信じ、粘り強く近隣二十八ヵ村を説得し、膨大な私財を投じて事業を推進した。時に物笑いの種にされ、時に中傷を受けることもあったという。明治二十四年(1891)、庄蔵が五十六歳で他界した後、この事業は八幡小太郎(黒土村長)に引き継がれ、完成を見たのは丙池が明治二十一年(1888)、乙池は明治二十二年(1889)、難工事が続いた甲池は明治三十三年(1900)のことであった。「人間の偉さ」とか「人生の尊さ」というものは人それぞれ尺度があるし、一概に誰が偉いといえるものではない。たとえば明治時代に中央政界で国創りに生命を賭した人たちも非常に偉い人ばかりだと思うが、高橋庄蔵のように地域のために自分の生命財産を擲った無名の人物も同じように偉いと思ったので、ここに紹介したものである。
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高橋庄蔵翁遺髪埋祀處
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矢方池碑
高橋庄蔵翁の遺髪碑と庄蔵を祀る矢方池神社が、矢方池を見守るように建てられている。
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