(金堀山神社)
沓掛峠の金堀地区側の上り口に山の神を祀った神社がある。旅人は、この街道を往来するのに沓(わらじ)を神社の杉の木などに掛け、旅の安全を神社に祈った。ここから沓掛峠に至る山道はかつての街道であり、敗走する白虎隊ら会津藩兵もこの道を通ったであろう。
金堀山神社
戦死十一人之墓
この付近で戦死した会津藩士十一人の墓である。金堀の住人の手によって建てられたものである。
ここから金堀の滝を経由して山道を登ると、沓掛茶屋跡があるはずである。熊除けの鈴を鳴らしながら山道をのぼった。しかし、進むにつれて草深くなり、途中で断念することになった。
金堀の滝
(滝沢峠)
滝沢峠で車を降りて会津側に十分ほど下りて行くと、舟石茶屋跡、その名前の由来となった舟石がある。
舟石茶屋跡
旧街道の石畳
舟石
桜井常四郎は「滝沢峠は命を賭して死守する。敵が城下に侵入することがあれば、我は死んだものと考えよ」と、妻に言い残して出陣。慶応四年(1868)八月二十三日、舟石の上で腹を掻き切って壮絶な死を遂げた。四十六歳。同日、妻たみ子も自宅で自害した。
(東明寺)

東明寺
東明寺はもともと市街地にあったが、昭和三十二年(1962)、郊外の川原町に移転し、その際に周囲の寺院を吸収したため広大な境内をもつに至った。
聞法院義阿忠専居士(渡邉治左衛門の墓)
渡邉治左衛門は、源太郎の父。慶応四年(1868)八月二十三日、若松五軒町にて戦死。六十四歳。
好川家之墓(好川瀧三郎・瀧之助兄弟の墓)
好川瀧三郎は弥一右衛門の二男。白虎寄合一番原隊。明治元年(1868)九月従五日、会津一ノ堰にて負傷。十六日、面川にて死亡。十六歳(墓誌には、十七日死亡、十五歳とある)。
好川瀧之助は、弥一右衛門の倅。遊撃井深隊。慶応四年(1868)閏四月二十四日(墓誌によれば四月)、越後三国峠にて戦死。二十一歳。
三澤家代々墓(三澤留吉の墓)
墓碑によれば、慶応四年(1868)四月二十五日、白河にて戦死。三十五歳。
「幕末維新全殉難者名鑑」に一致する名前がなく、竹様によれば「三村留吉」とあるのがそれではないかという。三村留吉は六石二人扶持、足軽。遊撃遠山隊。死亡は閏四月二十五日。
(駒板墓地)
駒板地区の共同墓地内に蘭医古川春英の墓がある。
古川春英墓
古川春英は、文政十一年(1828)、駒板村の農家古川長蔵の末子に生まれた。幼名留吉。幼い頃から俊逸で、日吉丸の異名があったという。生家は駒板村法雲寺の西側にあったとされる。
十三歳で医師となることを決意し、若松の山内春瀧の家弟となって医術を学んだが、ほどなく漢方医学の限界を感じ、会津を出奔して大阪の緒方洪庵塾に入門した。安政四年(1857)、会津藩に蘭学所が開設されたことを聞いて、会津に戻り、蘭学所の責任者である野村監物のとりなしによって帰藩を赦され、蘭学所の教官となった。やがて、日々進歩する医学に遅れをとってしまっていることに気付き、再び大阪の緒方洪庵のもとで学び、さらに長崎に渡って蘭医ボードウィンに師事した。この頃、長崎で松本良順と出会った。慶應四年(1868)、戊辰戦争が勃発すると、戦地から後送されてくる戦傷者の手当に窮した藩は、松本良順に応援を依頼した。良順は会津に赴き治療を手掛ける傍ら、「古川春英はどこにいるのか、会津藩には名医古川春英がいるではないか。早く彼を呼びなさい」と藩首脳に訴えたため、藩は慌てて春英を探し出して召還させたという。会津戦争中、城内で神業的な外科手術や治療を行い、多くの命を救ったが、このときの婦女子の協力を得た治療看護活動は、後世の看護制度の嚆矢ともいわれている。戦後、島村(現・会津若松市河東町)の治療所所長を経て、若松千石町の治療所に移り、患者の治療や子弟の教育に力を注いだが、明治三年(1870)、流行したチフスの治療に当たるうちに自らも感染し、同年十一月七日、生涯を閉じた。享年四十三。最初、融通寺に葬られたが、のちに故郷駒板に改葬された。
(秀安寺)

秀安寺
義山道勇信士(小原庄助の墓)
小原庄助というと、「朝寝、朝酒、朝風呂」が大好きで、それが行き過ぎて身上をつぶしたといわれる伝説の人物である。その実在は疑問視されているが、秀安寺にその小原庄助の墓がある。個人的には、これまでも白河市や木更津市で小原庄助の墓を見て来た。「朝寝、朝酒、朝風呂」の好きな好々爺を総称して「小原庄助」と呼んでいるような気がする。
秀安寺の小原庄助は、小原家の墓域にあり、墓石側面には「明治元年八月二十二日戦死 小原庄助」と記されている。被葬者はたまたま名前が小原庄助だったのかもしれない。
(大塚山墓園)
恵倫寺における掃苔を終えた時点で、午後三時半を過ぎていた。日没までの残り時間を大塚山墓園での探墓に充てることになった。
大塚山墓園は、市内に境内をもつ高厳寺や紫雲寺などの墓地を集めたもので、大塚山古墳の麓から斜面に造成された広大な霊園である。
竹様の先導で大塚山墓園を歩いたが、竹様も大塚山を歩いたのは随分昔のことで記憶が曖昧なこともあり、途中から四人で手分けをして探すことになった。「墓探し」に関しては我が国トップレベル?の四人が目を皿のようにして探したが、かつて竹様が見たという斎藤源太、鈴木安太郎の墓を発見することはできなかった。撤去もしくは移葬されたものと思われる。
赤城家代々之墓(赤城佐代之助の墓)
赤城佐代之助は、六石二人扶持。青竜三番足軽野村隊。慶応四年(1868)九月三日、会津大内峠にて戦死。五十歳。
大塚山墓園の一番下に高厳寺の無縁墓石を集めた一角があり、そこに鈴木徳治、小原父子の墓がある。また、大岩元四郎の古い墓石は無縁墓石の山の中にある。
鈴木徳次之墓
鈴木徳治(墓石では徳次)は、音治の父。六石五斗二人扶持。青竜足軽四番有賀隊。慶応四年(1868)八月二十三日、会津三斗小屋にて戦死。四十二歳。
表面には「善世院徳恵了安居士」という徳治の法名が刻まれている。

勇心院忠譽光運居士
義誠院進譽○恵居士
(小原房吉 忠次郎の墓)
小原房吉は忠次郎の倅。朱雀士中二番田中隊。慶應四年(1868)五月六日、下野今市にて戦死。二十七歳。
忠次郎は、青龍士一番木本隊。慶応四年(1868)八月二十七日、会津小田山にて戦死。四十四歳。
相原家代々墓
相原貞次の墓である。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載はないが、墓石の裏面には「慶応四年閏四月十八日」という没年月日が刻まれている。
義勇院淨譽忠○居士(大岩元四郎の墓)
大岩家之墓
大岩元四郎は、十石三人扶持。一ノ寄合上席。衝鋒隊二番隊差図役。慶応四年(1868)八月二十五日、若松長命寺裏にて戦死。三十一歳。
竹様によれば、大岩家の墓に大岩新八郎も合葬されているのだそうである。ただし、かつて墓石の傍らにあったという墓誌が撤去されており、合葬者の名前は確認できず。
大岩新八郎(「幕末維新全殉難者名鑑」では大戸新八郎)は、十石三人扶持。大砲士中一番田中隊。慶應四年(1868)八月二十三日、若松天神口にて戦死。五十二歳。
松江家之墓
松江豊寿(とよひさ)、春次兄弟の墓である。Sさんのリクエストにより訪問することになった。
松江豊寿は九代目若松市長。旧会津藩士松江久平の長男。軍人を志して陸軍士官学校に入学。卒業後、中佐の時に徳島(板東)俘虜収容所所長となった。第一次世界大戦で収容されたドイツ兵捕虜を、捕虜は愛国者であって犯罪者ではないので人道に扱うべきと主張し住民と交流させた。町村では牛乳、バター、パンなどが作られた。捕虜たちによりベートーヴェンの第九が初めて演奏されたエピソードは有名。九代若松市長として上水道計画を決議。引退後は飯盛山の白虎隊墓地広場の拡張に尽力した。昭和三十一年(1956)没。
弟春治は「南洋開発の父」と称された人物である。
Sさんが語るところによれば、新選組局長近藤勇の愛刀「阿州吉川六郎源祐芳」に松江豊寿の署名の入ったメモが見つかり、そこに「下僕首を盗み生前の愛刀になりし此の刀を持ちて会津に走り密かに葬る」と書かれていた。このことから、現在、近藤勇の首の「会津埋葬説」が有力視されているというのである。
沓掛峠の金堀地区側の上り口に山の神を祀った神社がある。旅人は、この街道を往来するのに沓(わらじ)を神社の杉の木などに掛け、旅の安全を神社に祈った。ここから沓掛峠に至る山道はかつての街道であり、敗走する白虎隊ら会津藩兵もこの道を通ったであろう。

金堀山神社

戦死十一人之墓
この付近で戦死した会津藩士十一人の墓である。金堀の住人の手によって建てられたものである。
ここから金堀の滝を経由して山道を登ると、沓掛茶屋跡があるはずである。熊除けの鈴を鳴らしながら山道をのぼった。しかし、進むにつれて草深くなり、途中で断念することになった。

金堀の滝
(滝沢峠)
滝沢峠で車を降りて会津側に十分ほど下りて行くと、舟石茶屋跡、その名前の由来となった舟石がある。

舟石茶屋跡

旧街道の石畳

舟石
桜井常四郎は「滝沢峠は命を賭して死守する。敵が城下に侵入することがあれば、我は死んだものと考えよ」と、妻に言い残して出陣。慶応四年(1868)八月二十三日、舟石の上で腹を掻き切って壮絶な死を遂げた。四十六歳。同日、妻たみ子も自宅で自害した。
(東明寺)

東明寺
東明寺はもともと市街地にあったが、昭和三十二年(1962)、郊外の川原町に移転し、その際に周囲の寺院を吸収したため広大な境内をもつに至った。

聞法院義阿忠専居士(渡邉治左衛門の墓)
渡邉治左衛門は、源太郎の父。慶応四年(1868)八月二十三日、若松五軒町にて戦死。六十四歳。

好川家之墓(好川瀧三郎・瀧之助兄弟の墓)
好川瀧三郎は弥一右衛門の二男。白虎寄合一番原隊。明治元年(1868)九月従五日、会津一ノ堰にて負傷。十六日、面川にて死亡。十六歳(墓誌には、十七日死亡、十五歳とある)。
好川瀧之助は、弥一右衛門の倅。遊撃井深隊。慶応四年(1868)閏四月二十四日(墓誌によれば四月)、越後三国峠にて戦死。二十一歳。

三澤家代々墓(三澤留吉の墓)
墓碑によれば、慶応四年(1868)四月二十五日、白河にて戦死。三十五歳。
「幕末維新全殉難者名鑑」に一致する名前がなく、竹様によれば「三村留吉」とあるのがそれではないかという。三村留吉は六石二人扶持、足軽。遊撃遠山隊。死亡は閏四月二十五日。
(駒板墓地)
駒板地区の共同墓地内に蘭医古川春英の墓がある。

古川春英墓
古川春英は、文政十一年(1828)、駒板村の農家古川長蔵の末子に生まれた。幼名留吉。幼い頃から俊逸で、日吉丸の異名があったという。生家は駒板村法雲寺の西側にあったとされる。
十三歳で医師となることを決意し、若松の山内春瀧の家弟となって医術を学んだが、ほどなく漢方医学の限界を感じ、会津を出奔して大阪の緒方洪庵塾に入門した。安政四年(1857)、会津藩に蘭学所が開設されたことを聞いて、会津に戻り、蘭学所の責任者である野村監物のとりなしによって帰藩を赦され、蘭学所の教官となった。やがて、日々進歩する医学に遅れをとってしまっていることに気付き、再び大阪の緒方洪庵のもとで学び、さらに長崎に渡って蘭医ボードウィンに師事した。この頃、長崎で松本良順と出会った。慶應四年(1868)、戊辰戦争が勃発すると、戦地から後送されてくる戦傷者の手当に窮した藩は、松本良順に応援を依頼した。良順は会津に赴き治療を手掛ける傍ら、「古川春英はどこにいるのか、会津藩には名医古川春英がいるではないか。早く彼を呼びなさい」と藩首脳に訴えたため、藩は慌てて春英を探し出して召還させたという。会津戦争中、城内で神業的な外科手術や治療を行い、多くの命を救ったが、このときの婦女子の協力を得た治療看護活動は、後世の看護制度の嚆矢ともいわれている。戦後、島村(現・会津若松市河東町)の治療所所長を経て、若松千石町の治療所に移り、患者の治療や子弟の教育に力を注いだが、明治三年(1870)、流行したチフスの治療に当たるうちに自らも感染し、同年十一月七日、生涯を閉じた。享年四十三。最初、融通寺に葬られたが、のちに故郷駒板に改葬された。
(秀安寺)

秀安寺

義山道勇信士(小原庄助の墓)
小原庄助というと、「朝寝、朝酒、朝風呂」が大好きで、それが行き過ぎて身上をつぶしたといわれる伝説の人物である。その実在は疑問視されているが、秀安寺にその小原庄助の墓がある。個人的には、これまでも白河市や木更津市で小原庄助の墓を見て来た。「朝寝、朝酒、朝風呂」の好きな好々爺を総称して「小原庄助」と呼んでいるような気がする。
秀安寺の小原庄助は、小原家の墓域にあり、墓石側面には「明治元年八月二十二日戦死 小原庄助」と記されている。被葬者はたまたま名前が小原庄助だったのかもしれない。
(大塚山墓園)
恵倫寺における掃苔を終えた時点で、午後三時半を過ぎていた。日没までの残り時間を大塚山墓園での探墓に充てることになった。
大塚山墓園は、市内に境内をもつ高厳寺や紫雲寺などの墓地を集めたもので、大塚山古墳の麓から斜面に造成された広大な霊園である。
竹様の先導で大塚山墓園を歩いたが、竹様も大塚山を歩いたのは随分昔のことで記憶が曖昧なこともあり、途中から四人で手分けをして探すことになった。「墓探し」に関しては我が国トップレベル?の四人が目を皿のようにして探したが、かつて竹様が見たという斎藤源太、鈴木安太郎の墓を発見することはできなかった。撤去もしくは移葬されたものと思われる。

赤城家代々之墓(赤城佐代之助の墓)
赤城佐代之助は、六石二人扶持。青竜三番足軽野村隊。慶応四年(1868)九月三日、会津大内峠にて戦死。五十歳。
大塚山墓園の一番下に高厳寺の無縁墓石を集めた一角があり、そこに鈴木徳治、小原父子の墓がある。また、大岩元四郎の古い墓石は無縁墓石の山の中にある。

鈴木徳次之墓
鈴木徳治(墓石では徳次)は、音治の父。六石五斗二人扶持。青竜足軽四番有賀隊。慶応四年(1868)八月二十三日、会津三斗小屋にて戦死。四十二歳。
表面には「善世院徳恵了安居士」という徳治の法名が刻まれている。

勇心院忠譽光運居士
義誠院進譽○恵居士
(小原房吉 忠次郎の墓)
小原房吉は忠次郎の倅。朱雀士中二番田中隊。慶應四年(1868)五月六日、下野今市にて戦死。二十七歳。
忠次郎は、青龍士一番木本隊。慶応四年(1868)八月二十七日、会津小田山にて戦死。四十四歳。

相原家代々墓
相原貞次の墓である。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載はないが、墓石の裏面には「慶応四年閏四月十八日」という没年月日が刻まれている。

義勇院淨譽忠○居士(大岩元四郎の墓)

大岩家之墓
大岩元四郎は、十石三人扶持。一ノ寄合上席。衝鋒隊二番隊差図役。慶応四年(1868)八月二十五日、若松長命寺裏にて戦死。三十一歳。
竹様によれば、大岩家の墓に大岩新八郎も合葬されているのだそうである。ただし、かつて墓石の傍らにあったという墓誌が撤去されており、合葬者の名前は確認できず。
大岩新八郎(「幕末維新全殉難者名鑑」では大戸新八郎)は、十石三人扶持。大砲士中一番田中隊。慶應四年(1868)八月二十三日、若松天神口にて戦死。五十二歳。

松江家之墓
松江豊寿(とよひさ)、春次兄弟の墓である。Sさんのリクエストにより訪問することになった。
松江豊寿は九代目若松市長。旧会津藩士松江久平の長男。軍人を志して陸軍士官学校に入学。卒業後、中佐の時に徳島(板東)俘虜収容所所長となった。第一次世界大戦で収容されたドイツ兵捕虜を、捕虜は愛国者であって犯罪者ではないので人道に扱うべきと主張し住民と交流させた。町村では牛乳、バター、パンなどが作られた。捕虜たちによりベートーヴェンの第九が初めて演奏されたエピソードは有名。九代若松市長として上水道計画を決議。引退後は飯盛山の白虎隊墓地広場の拡張に尽力した。昭和三十一年(1956)没。
弟春治は「南洋開発の父」と称された人物である。
Sさんが語るところによれば、新選組局長近藤勇の愛刀「阿州吉川六郎源祐芳」に松江豊寿の署名の入ったメモが見つかり、そこに「下僕首を盗み生前の愛刀になりし此の刀を持ちて会津に走り密かに葬る」と書かれていた。このことから、現在、近藤勇の首の「会津埋葬説」が有力視されているというのである。
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