(会津新選組記念館)
市内七日町通り沿いに会津新選組記念館がある。入場料三百円(五名以上になると一人二百円とお得)。一階は骨董品やお土産屋となっていて、そこでお金を払って二階へ上がる。
記念館では幕末に使用された武器や弾薬などのほか、有栖川宮熾仁親王の和歌や大鳥圭介の詩などが所せましと並べられている。
会津新選組記念館

砲弾
ここで目をひいたのが平成二十九年(2017)五月十五日付産経新聞の記事のコピーである。記事によれば、新選組の近藤勇の首を埋葬した場所について「会津説」が急浮上しているという。真偽の証明は難しいが、天寧寺の近藤の墓を掘り起こせば結論が出るかもしれない。
同行していたSさんが、近藤の刀に添えられていたメモの筆跡を調査したという品川区の焼肉店経営権東品さんと知り合いということもあり、大いに話が盛り上がったのであった。
(大法寺)

大法寺
磯上内蔵之丞の墓
磯上内蔵之丞の墓である。忠吾とも。百石。進撃小室隊組頭助勤。慶應四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。四十三歳。
長谷川家之墓
長谷川源次郎は、青竜士中一番鈴木隊。慶応四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。三十六歳。
秋山彦左衛門墓
秋山彦左衛門は、百石、蔵奉行。慶応四年(1868)八月二十三日、若松城内にて自刃。五十一歳。
(秋月悌次郎生誕の地)
住所でいうと湯川町の住宅の一角に秋月悌次郎生誕の地碑が建てられている。おそらく最近建てられたものである。
秋月悌次郎胤永は、文政七年(1824)、当地に生まれた。藩校日新館から江戸の昌平黌に進み、寸暇を惜しんで勉学に励み、書生寮舎長となった。後に藩命により関西各地を歴訪し、有為の人材と交わりを結んだ。会津藩主が京都守護職に任じられると、公用方として公武間を奔走し、会薩同盟や文久の政変に功があった。戊辰戦争では越後戦争参謀、籠城戦を副軍事奉行として戦った。終盤、決死の使者として開城を西軍と談判し、降伏式を執行した。また山川健次郎ら青年に教育の道を拓いた。
明治期には漢学の復興と子弟教育に務め、特に第五高等学校(現・熊本大学)では、同僚のルフカディオ・ハーン(小泉八雲)や学生たちから深く慕われ、敬愛された。詩作に秀で「北越潜行の詩」は「会津三絶」の一つとされる。人と為り「明晰・果断・不屈・至誠」(親友、南摩綱紀の言)。悌次郎の言葉「学は理屈に陥らず、治は覇術に流れず」は、今に通じる金言である。明治三十三年(1900)没。
会津藩士秋月悌次郎生誕之地
(中荒井)
紀念碑
この場所も分かりにくい場所で、竹様の案内なくして自力でたどり着けるようなところではない。以下、竹様のホームページより転載。
中荒井村の諏訪神社が、現在地に遷宮される以前の神社境内に、俗称「角場」と呼ばれた武術修練所があった。そこは弓道、馬術、槍、刀や拳法など武術を修練する道場で、中荒井村だけでなく、会津四郡の地方御家人はじめ、会津藩の郷士やその子弟が訓練した道場であった。
この碑は、その道場があった記念と戦死者の碑である。明治二十三年(1890)四月、松平容大の篆額。
(五百川原墓地)
川村謙益妻高知氏 同末児李四郎 墓
医師川村謙益の妻とその子の墓である。
墓石側面および背面にぎっしりと刻まれた文字を読み解くと、会津戦争の戦乱による悲劇が浮かび上がってくる。この墓に葬られている川村謙益の妻は、戦乱のさ中、幼子を見失い、そのことを気に病んで自殺したというのである。
この墓も竹様に紹介していただいた。竹様は、道を走っていて目に入った共同墓地に「それらしい臭い」を感じたらその場所の墓石を一つひとつ確認して「慶応四年」もしくは「明治元年」と記されたものを発掘し、戊辰殉難者を発掘するという気の遠くなるような作業を繰り返している。五百川原墓地のこの墓もそういった活動の成果なのである。全く頭が下がる。
市内七日町通り沿いに会津新選組記念館がある。入場料三百円(五名以上になると一人二百円とお得)。一階は骨董品やお土産屋となっていて、そこでお金を払って二階へ上がる。
記念館では幕末に使用された武器や弾薬などのほか、有栖川宮熾仁親王の和歌や大鳥圭介の詩などが所せましと並べられている。

会津新選組記念館

砲弾
ここで目をひいたのが平成二十九年(2017)五月十五日付産経新聞の記事のコピーである。記事によれば、新選組の近藤勇の首を埋葬した場所について「会津説」が急浮上しているという。真偽の証明は難しいが、天寧寺の近藤の墓を掘り起こせば結論が出るかもしれない。
同行していたSさんが、近藤の刀に添えられていたメモの筆跡を調査したという品川区の焼肉店経営権東品さんと知り合いということもあり、大いに話が盛り上がったのであった。
(大法寺)

大法寺

磯上内蔵之丞の墓
磯上内蔵之丞の墓である。忠吾とも。百石。進撃小室隊組頭助勤。慶應四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。四十三歳。

長谷川家之墓
長谷川源次郎は、青竜士中一番鈴木隊。慶応四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。三十六歳。

秋山彦左衛門墓
秋山彦左衛門は、百石、蔵奉行。慶応四年(1868)八月二十三日、若松城内にて自刃。五十一歳。
(秋月悌次郎生誕の地)
住所でいうと湯川町の住宅の一角に秋月悌次郎生誕の地碑が建てられている。おそらく最近建てられたものである。
秋月悌次郎胤永は、文政七年(1824)、当地に生まれた。藩校日新館から江戸の昌平黌に進み、寸暇を惜しんで勉学に励み、書生寮舎長となった。後に藩命により関西各地を歴訪し、有為の人材と交わりを結んだ。会津藩主が京都守護職に任じられると、公用方として公武間を奔走し、会薩同盟や文久の政変に功があった。戊辰戦争では越後戦争参謀、籠城戦を副軍事奉行として戦った。終盤、決死の使者として開城を西軍と談判し、降伏式を執行した。また山川健次郎ら青年に教育の道を拓いた。
明治期には漢学の復興と子弟教育に務め、特に第五高等学校(現・熊本大学)では、同僚のルフカディオ・ハーン(小泉八雲)や学生たちから深く慕われ、敬愛された。詩作に秀で「北越潜行の詩」は「会津三絶」の一つとされる。人と為り「明晰・果断・不屈・至誠」(親友、南摩綱紀の言)。悌次郎の言葉「学は理屈に陥らず、治は覇術に流れず」は、今に通じる金言である。明治三十三年(1900)没。

会津藩士秋月悌次郎生誕之地
(中荒井)

紀念碑
この場所も分かりにくい場所で、竹様の案内なくして自力でたどり着けるようなところではない。以下、竹様のホームページより転載。
中荒井村の諏訪神社が、現在地に遷宮される以前の神社境内に、俗称「角場」と呼ばれた武術修練所があった。そこは弓道、馬術、槍、刀や拳法など武術を修練する道場で、中荒井村だけでなく、会津四郡の地方御家人はじめ、会津藩の郷士やその子弟が訓練した道場であった。
この碑は、その道場があった記念と戦死者の碑である。明治二十三年(1890)四月、松平容大の篆額。
(五百川原墓地)

川村謙益妻高知氏 同末児李四郎 墓
医師川村謙益の妻とその子の墓である。
墓石側面および背面にぎっしりと刻まれた文字を読み解くと、会津戦争の戦乱による悲劇が浮かび上がってくる。この墓に葬られている川村謙益の妻は、戦乱のさ中、幼子を見失い、そのことを気に病んで自殺したというのである。
この墓も竹様に紹介していただいた。竹様は、道を走っていて目に入った共同墓地に「それらしい臭い」を感じたらその場所の墓石を一つひとつ確認して「慶応四年」もしくは「明治元年」と記されたものを発掘し、戊辰殉難者を発掘するという気の遠くなるような作業を繰り返している。五百川原墓地のこの墓もそういった活動の成果なのである。全く頭が下がる。
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