(山鹿官軍墓地)
この墓地には、山鹿口の戦いで奮戦し、鍋田や岩村で戦死した官軍将兵と、菊池郡下で戦死した将兵合わせて百五十三柱が葬られている。かつて一人ひとりの墓碑があったが、老人福祉センターの建設に伴い、現在のように一カ所に集められた。戦没者の氏名が分からなくなるのを憂えた山鹿口戦蹟顕彰会員の努力により、記名碑が合祀碑の前に建設された。

明治十年西南ノ役
官軍墓地

山鹿官軍墓地
(光顕寺)
山鹿口の合戦では宮崎日南の飫肥隊が奮戦した。山鹿市内の光顕寺は飫肥隊の病院になったと伝えられる。
光顕寺
史跡西南之役薩軍飫肥隊病院跡
飫肥隊は、山鹿に着くと光顕寺を本陣と定め、直ちに戦闘に加わった。最も激戦となった三月十二日と十五日の戦いでは、年の神墓地に陣地を死守して、第二小隊長高橋元安以下数十名の死傷者を出した。死者はこの寺の墓地に葬り、負傷者は本堂で看護された。のちに墓石は故郷に持ち帰られた。
(長源寺)
長源寺
史跡西南之役薩軍野戦病院跡
岡村平助 和田新左衛門 墓
長源寺には、薩軍の野戦病院が置かれた。負傷して運び込まれここで絶命した者、または戦場で倒れてここで葬られた者、合わせて四十数基の墓があったという。戦後、薩摩から縁者が訪ねてきて遺骨を持ち帰ったため、今では少数の墓石が残されているのみとなっている。
(光専寺)

光専寺
光専寺は、開戦当初は薩軍の兵站基地として利用され、のち野戦病院となった。本堂に遺体が運び込まれ供養埋葬され、庫裡では負傷者を収容して看護した。また、山鹿での回戦中、山鹿の街では熊本協同隊の有志によって、日本で初めて民権体制が敷かれた。この寺は、民生官となった野満長太郎の檀那寺であったため、寺の一室を借りて同士の会合を開いたと伝えられる。田原坂が落ちると、山鹿の薩軍も隈府(現・菊池市)方面に退却したが、去るに及んで「我々は負けていない」と残念がり、寺の庫裡の天井や鴨居を槍や刀で突き破って、無念の表情を見せたという。その時の傷痕が今も残っているそうである。
戦闘が激化して傷病兵の数が多くなると、光専寺も野戦病院となった。
(湯の端公園)
西南の役 山鹿口の戦い
薩軍本陣跡
湯の端公園の少し東側に薩軍本陣跡の説明板が設置されている。薩軍が山鹿に入ったのは、二月二十五日のことであった。三月二十日に田原坂が陥ち、薩軍が撤退するまでの二十四日間、薩軍はここ(当時は梅の井旅館)に本陣を置いた。桐野利秋は戦いの前半ここに滞在していた。三月二十一日には官軍が山鹿に入り、本営をそのまま当地に置いた。
宮崎滔天の「熊本協同隊」によれば、山鹿の人たちが薩軍を歓迎した様子を描いている。薩軍が山鹿を制圧していた間、この地で我が国最初の民権政治(普通選挙による人民総代の選出)が行われた。しかし、この試みも、薩軍と熊本協同隊の撤退と同時に崩壊した。
山鹿市街地の史跡は、朝七時前から自力で回った。山鹿口戦蹟顕彰会のK氏、E氏とは当日朝九時に博物館で待ち合わせしたが、それまでに市街地と万行寺(上吉田)、正円寺(津留)、日輪寺、山鹿稲荷神社(杉)を回った。
この墓地には、山鹿口の戦いで奮戦し、鍋田や岩村で戦死した官軍将兵と、菊池郡下で戦死した将兵合わせて百五十三柱が葬られている。かつて一人ひとりの墓碑があったが、老人福祉センターの建設に伴い、現在のように一カ所に集められた。戦没者の氏名が分からなくなるのを憂えた山鹿口戦蹟顕彰会員の努力により、記名碑が合祀碑の前に建設された。

明治十年西南ノ役
官軍墓地

山鹿官軍墓地
(光顕寺)
山鹿口の合戦では宮崎日南の飫肥隊が奮戦した。山鹿市内の光顕寺は飫肥隊の病院になったと伝えられる。

光顕寺

史跡西南之役薩軍飫肥隊病院跡
飫肥隊は、山鹿に着くと光顕寺を本陣と定め、直ちに戦闘に加わった。最も激戦となった三月十二日と十五日の戦いでは、年の神墓地に陣地を死守して、第二小隊長高橋元安以下数十名の死傷者を出した。死者はこの寺の墓地に葬り、負傷者は本堂で看護された。のちに墓石は故郷に持ち帰られた。
(長源寺)

長源寺

史跡西南之役薩軍野戦病院跡

岡村平助 和田新左衛門 墓
長源寺には、薩軍の野戦病院が置かれた。負傷して運び込まれここで絶命した者、または戦場で倒れてここで葬られた者、合わせて四十数基の墓があったという。戦後、薩摩から縁者が訪ねてきて遺骨を持ち帰ったため、今では少数の墓石が残されているのみとなっている。
(光専寺)

光専寺
光専寺は、開戦当初は薩軍の兵站基地として利用され、のち野戦病院となった。本堂に遺体が運び込まれ供養埋葬され、庫裡では負傷者を収容して看護した。また、山鹿での回戦中、山鹿の街では熊本協同隊の有志によって、日本で初めて民権体制が敷かれた。この寺は、民生官となった野満長太郎の檀那寺であったため、寺の一室を借りて同士の会合を開いたと伝えられる。田原坂が落ちると、山鹿の薩軍も隈府(現・菊池市)方面に退却したが、去るに及んで「我々は負けていない」と残念がり、寺の庫裡の天井や鴨居を槍や刀で突き破って、無念の表情を見せたという。その時の傷痕が今も残っているそうである。
戦闘が激化して傷病兵の数が多くなると、光専寺も野戦病院となった。
(湯の端公園)

西南の役 山鹿口の戦い
薩軍本陣跡
湯の端公園の少し東側に薩軍本陣跡の説明板が設置されている。薩軍が山鹿に入ったのは、二月二十五日のことであった。三月二十日に田原坂が陥ち、薩軍が撤退するまでの二十四日間、薩軍はここ(当時は梅の井旅館)に本陣を置いた。桐野利秋は戦いの前半ここに滞在していた。三月二十一日には官軍が山鹿に入り、本営をそのまま当地に置いた。
宮崎滔天の「熊本協同隊」によれば、山鹿の人たちが薩軍を歓迎した様子を描いている。薩軍が山鹿を制圧していた間、この地で我が国最初の民権政治(普通選挙による人民総代の選出)が行われた。しかし、この試みも、薩軍と熊本協同隊の撤退と同時に崩壊した。
山鹿市街地の史跡は、朝七時前から自力で回った。山鹿口戦蹟顕彰会のK氏、E氏とは当日朝九時に博物館で待ち合わせしたが、それまでに市街地と万行寺(上吉田)、正円寺(津留)、日輪寺、山鹿稲荷神社(杉)を回った。
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