史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

旭 Ⅱ

2017年07月01日 | 千葉県
(大原幽学記念館)


大原幽学記念館

 旭市長部(ながぺ)という田圃に囲まれた場所に大原幽学記念館という不似合なほど立派な施設がある。入園料三百円。建物の外には、大原幽学の旧宅や大原聖殿などが保存されていて、史跡公園となっている。


大原幽学座像

 大原幽学は、先祖株組合と呼ばれる世界初の農業協同組合をつくった人物である。近畿、信州、房総の各地を放浪し、道徳と経済の調和を基本とした性学(せいがく)を説き、主に長部村を中心に農村改革の指導にあたった。先祖株組合の結成、耕地整理、農業技術の指導といった農業改革のほか、独自の思想に基づいた生活改善や教育仕法なども実践し、村は領主から表彰を受けるほどの復興を果たした。しかし、農民が村を越えて活動したこと、大規模な教導所を建設したことなどから、幕府の嫌疑を受け、失意のうちに安政五年(1858)三月八日、自害した。六十二歳。幽学は、二宮尊徳と並んで、この時代を代表する農村指導者であった。小作人を集めて農地を整理し、大規模化によって生産性を向上させようという発想は、時代が少し違えば画期的な考え方であったが、生まれた時代が早過ぎたのが幽学の不幸だったのであろうか。


教会所跡

 慶応三年(1867)頃、幽学の跡を継いだ二代目の教主遠藤良左衛門時代に建てられた教場の跡地である。八畳二間に炊事場、厠をつけた家屋が三棟建てられ、庭には四本の樹木と生垣が植えられ、池が配された。西側の広場には各村の畑が二畝歩ずつ設けられ、門人たちの宿泊時に食用に供された。教会所の建物は、明治三十六年(1903)五月に火災により焼失した。


大原幽学の旧宅

 この建物は、幽学の設計により有志の出資により天保十三年(1842)に完成した。素朴で堅固な材料を用い、簡素であるが、高雅な書院造りである。屋根は萱葺き、庇は木羽葺きであったが、大正の末に銅板葺きに改修した。当時使用されていた行燈や夜具等もよく保存されている。


改心樓


大原聖殿

 旧宅から一段上ったところに大原聖殿がある。一見すると神社風であるが、鳥居らしきものは見当たらない。この建物は、幽学没後、八年忌にあたる昭和十二年(1937)に建立されたものである。当初、大原神社として計画され、本殿の後方には奥殿もつくられたが、神社としての許可がおりず、大原聖殿という名称に落ち着いたという。
 この場所には、かつて幽学の教導所「改心楼」があった。間口七間、奥行き五間の茅葺期の建物で、建設の費用、資材の提供、人足に至るまで、そのほとんどが門人たちの協力によってまかなわれた。しかし、嘉永五年(1852)、博徒の乱入の舞台となり、この事件の裁判により取り壊された。
 「天保水滸伝」の舞台として知られるように、この地域は主要交通路であった利根川流域の発展にともない、博徒が横行し、抗争を繰り返していた。関東取締出役の手先を務める博徒五名が、改心楼に押し入った。この事件は幽学の教えに反感を抱いた役人と博徒が企んだもので、これをきっかけに幽学は幕府の取調を受けることになった。
 改心楼の文字は、幕臣戸川安清(やすずみ)の書。戸川安清は、長崎奉行や勘定奉行をつとめるとともに、隷書の名手と謳われ、十四代将軍家茂の習字の師匠でもあった人物である。


旧林家住宅

 林家住宅は、旭市内の別の場所にあったものを、昭和六十三年(1988)、移築復元したものである。
 林家六代目伊兵衛は、大原幽学の指導を受けて、天保年間に建築したもので、採光、通風を考えた開放的な構造となっている。

(大原幽学の墓)


大原幽学翁墓

 大原幽学記念館から近い共同墓地に大原幽学の墓がある。「墓地入口」と書かれた大きな標識があり、そこから枯葉でおおわれた細い道を上って行く。自動車一台が辛うじて通れるような細い道で、途中で不安になって引き返してしまった。記念館の受付の女性に確認すると、その道を真っ直ぐ行くと墓地に行き当たるという。再度、同じ道を進んで、大原幽学の墓に出会うことができた。自動車は墓地前の空間で向きを変えることができる。
 墓の背後には、死に臨んで幽学が残した「難舎者義也」(捨て難きは義なり)の言葉を刻んだ石碑も建てられている。

 合田一道著「幕末群像の墓を巡る」(青弓社)によれば、この地域には「男墓」と「女墓」があるのだそうだ。幽学の説いた性学の教えが、その跡を継いだ二代教主遠藤良左衛門、三代石毛源五郎らによって継承された。この墓地も男性用と女性用が明確に分れている。

(鏑木)


開拓記念碑

 鏑木の集落も大原幽学の指導により開墾され造成された場所である。嘉永三年(1850)から四年(1851)にかけて開拓されたといわれ、当時九軒の農家により構成されていた。


鏑木

 明治四十三年(1910)に集落に開拓記念碑が建てられた。この場所も記念館の受付で確認して、行き着くことができた。ちょっと分かりにくい場所である。
 今も鏑木地区では整然と区画された風景を見ることができる。


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