(関川)
江戸時代、江戸と地方を結ぶ主要な街道には関所が置かれた。北国街道沿いでは、越後と信濃の境を流れる関川に関川関所が置かれていた。
関川
北国街道は、軽井沢の追分で中山道から分岐して善光寺を経て越後高田に至る脇街道のことをいう。終点は出雲崎もしくは金沢ともいい、幕府はこの道を北国往還と呼んだ。佐渡から金銀を輸送する安全な道として、また北陸諸藩の大名が参勤交代で利用する道として重視され、庶民にとっても善光寺参拝等に欠かせない道として盛んに利用された。
関川関所道の歴史館
再現された関川関所
関所跡
関川関所は高田藩によって管理された。関川関所に常勤の藩士二名を派遣し、その下に足軽(下番)や人見女などを置いた。また大規模な大名行列などに備えて、近隣村々の百姓十名を郷足軽に任命して職務にあたった。
現在、関所跡には「道の歴史館」が開設され、関所に関する資料の展示、復元された番所建物などを見ることができる。入館料五百円。
明治天皇関川行在所阯
明治十一年(1878)、明治天皇は三回目の巡幸で新潟県を経由して北陸道、東海道を巡行した。随行員は、岩倉具視、大隈重信ら約八百人、乗馬は約百二十頭に及ぶ大規模なものであった。八月三十日に東京を出て、還幸は十一月二十九日、つまり七十二日におよび巡幸であった。
九月十日の午後四時過ぎ、関川関所跡で小休息をとり、その後、近くの旧加賀藩本陣大石邸で宿泊した。
加賀藩本陣跡(大石家)
加賀藩本陣大石家は、元文四年(1739)から加賀藩をはじめ九つの大名家の本陣として使われた。明治十一年(1878)の明治天皇北陸巡幸の際にも行在所となった。当時の建物は火災によって失われたが、建物の東側には池を中心とした庭園が残されている。
豊田家
高田藩本陣跡
高田藩の専用本陣であった豊田家の建物は昭和に入って取り壊された。現在は、石の塀や銀杏の大木のみが往時を偲ぶものとなっている。
(関山)
北国街道 関山宿
関山村は、高田藩と宝蔵院という寺院が分割して支配していたが、宿場の業務は高田藩領の役人が行った。関山宿は、関山権現社(関山神社)の門前町として栄えた。
関山神社
明治天皇駐輦碑
関山神社の入り口近くに明治天皇駐輦碑が立つ。題字は元帥海軍大将東郷平八郎。
(二俣)
北国街道 二俣宿
明治天皇二俣御小休所阯
二俣宿は田切宿と合宿で、大田切川と郷田切川に挟まれた交通の難所にあった。文化十三年(1816)、赤倉温泉開湯によって、温泉場入口の宿場として栄えた。
(君の井酒造)
君の井酒造
本願寺新井別院に隣接する君の井酒造は、明治天皇巡幸の際、酒が献上されたという。せっかくだから、お土産に日本酒でも…と考えていたのだが、残念なことにこの日お店はお休みであった。
君の井
(東本願寺新井別院)
東本願寺新井別院は、上越地方の東本願寺の末寺や門徒を統括するために、貞享二年(1685)に創建された。境内には樹齢五百年を超えるという一対の大イチョウが聳えている。
明治十一年(1878)九月十一日、関川を出発した明治天皇は、二俣、田野、関山、二本木で小休を重ね、東本願寺新井別院で昼食をとった。この巡幸の直前、新井別院の本堂は落雷を受けて焼失してしまったため、宝蔵院から庫裏を移築して行在所に充てたという。
東本願寺新井別院
明治天皇新井行在所
明治天皇行在所聖蹟
森蘭斎 森蘭園 梅津祐齋 墓
森蘭斎は本名を森田文祥といい、元文五年(1740)に新井村に生まれた。二十三歳のとき、長崎で神代熊斐の門人となった。やがて門人千余人の中から選ばれて師匠の家督を相続し、その時蘭斎という号を名乗った。のち江戸に出て師匠の画風を広めることを使命と考えていたが、安永三年(1774)、大阪に出て関西画壇で名声を博し、天明二年(1782)、四十二歳で「蘭斎画譜」八巻を京都、大阪、江戸で出版した。その後、江戸に出て当代一流の画家(後に南蘋派と呼ばれた)となり、徳川御三家の御用を勤めるようになった。また加賀前田藩のお抱え絵師にもなった。享和元年(1801)、江戸で六十二歳の生涯を閉じた。
蘭斎の墓は、当初浅草の妙清寺にあったが、昭和五年(1930)、当時の新井町長をはじめ地元有志が資金を出して、当寺院に移築した。同じ墓に蘭斎の息で、やはり絵師となった森蘭園も葬られている。
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