(保多田阿蘇神社)

保多田阿蘇神社
保多田阿蘇神社前の空間が、官軍が繃帯所を置いた場所である。軍夫として従軍した松本万次郎氏(当時十九歳)、坂本道博氏(当時十四歳)が無事に帰郷し、昭和初期までその頃のことを村の方々に語り残した、官軍が野戦病院とした場所である。
西南の役 官軍仮繃帯所跡
史跡西南の役官軍仮繃帯所跡
(椿井 徳永三兄弟の墓)
畑の中に椿井村出身の徳永三兄弟の墓がある。
史跡西南の役協同隊士徳永三兄弟顕彰の碑
徳永三兄弟は、徳永熊七、佐茂子の子として生まれた。徳永家は旧家で、旧藩時代は庄屋をつとめ、長男慎太郎は明治七年(1874)二十九歳の若さで大六区十一小区の副戸長に選任されている。自由民権を標榜する植木学校に学び、民権運動の先頭にたって活動し、西南戦争が起こると、二兄弟を率いて、民権派の同志とともに協同隊に投じて戦い、三兄弟とも戦死した。
徳永重蔵の墓
徳永慎太郎 政次之墓
徳永慎太郎 五月二十四日戦死 於水俣郷釘野村 享年三十二
徳永政次 四月九日戦死 於菊池郡城山 享年二十四
徳永重蔵 十一月二十三日死亡 於鍋田にて重傷を負い死没 享年二十九
(椿井激戦の地)

史跡 椿井方面激戦の地
椿井は、山鹿口の戦いでは西南端に位置し、鍋田と菰田の中間に当たる。また、椿井~六枝、椿井~麻生野道が通り、豊前街道や車坂を側面から攻撃する戦略上の要地であった。官薩両軍とも精鋭を派遣して本集落を奪取するために、取りつ取られつの攻防戦が行われた。「椿井方面激戦の地」の木柱の周りには古い墓石が置かれているが、激戦を物語る弾痕が残っている。
(正泉寺)

正泉寺
史跡西南の役正泉寺戦跡
弾痕
三月三日、官軍の一隊は、菰田の渡しから椿井の間に転々と堡塁を築いて薩軍を迎撃した。官軍は、東京一聯隊一個小隊と大阪八聯隊一個中隊で、正泉寺並びにその周辺に陣を敷いていた。薩軍は、鍋田から麻生野を通って近づき、台地方面から激しく攻め立てた。数時間の激戦ののち、官軍は菰田方面に退いた。正泉寺にはこの時の弾痕が壁や柱、墓地の墓石にのこっている。柱の弾痕には、白いペンキで印がされており、見つけやすい。

保多田阿蘇神社
保多田阿蘇神社前の空間が、官軍が繃帯所を置いた場所である。軍夫として従軍した松本万次郎氏(当時十九歳)、坂本道博氏(当時十四歳)が無事に帰郷し、昭和初期までその頃のことを村の方々に語り残した、官軍が野戦病院とした場所である。

西南の役 官軍仮繃帯所跡

史跡西南の役官軍仮繃帯所跡
(椿井 徳永三兄弟の墓)
畑の中に椿井村出身の徳永三兄弟の墓がある。

史跡西南の役協同隊士徳永三兄弟顕彰の碑
徳永三兄弟は、徳永熊七、佐茂子の子として生まれた。徳永家は旧家で、旧藩時代は庄屋をつとめ、長男慎太郎は明治七年(1874)二十九歳の若さで大六区十一小区の副戸長に選任されている。自由民権を標榜する植木学校に学び、民権運動の先頭にたって活動し、西南戦争が起こると、二兄弟を率いて、民権派の同志とともに協同隊に投じて戦い、三兄弟とも戦死した。

徳永重蔵の墓

徳永慎太郎 政次之墓
徳永慎太郎 五月二十四日戦死 於水俣郷釘野村 享年三十二
徳永政次 四月九日戦死 於菊池郡城山 享年二十四
徳永重蔵 十一月二十三日死亡 於鍋田にて重傷を負い死没 享年二十九
(椿井激戦の地)

史跡 椿井方面激戦の地
椿井は、山鹿口の戦いでは西南端に位置し、鍋田と菰田の中間に当たる。また、椿井~六枝、椿井~麻生野道が通り、豊前街道や車坂を側面から攻撃する戦略上の要地であった。官薩両軍とも精鋭を派遣して本集落を奪取するために、取りつ取られつの攻防戦が行われた。「椿井方面激戦の地」の木柱の周りには古い墓石が置かれているが、激戦を物語る弾痕が残っている。
(正泉寺)

正泉寺

史跡西南の役正泉寺戦跡

弾痕
三月三日、官軍の一隊は、菰田の渡しから椿井の間に転々と堡塁を築いて薩軍を迎撃した。官軍は、東京一聯隊一個小隊と大阪八聯隊一個中隊で、正泉寺並びにその周辺に陣を敷いていた。薩軍は、鍋田から麻生野を通って近づき、台地方面から激しく攻め立てた。数時間の激戦ののち、官軍は菰田方面に退いた。正泉寺にはこの時の弾痕が壁や柱、墓地の墓石にのこっている。柱の弾痕には、白いペンキで印がされており、見つけやすい。
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