(平山温泉)
西南の役平山本営跡
K氏によれば平山温泉は、黒川温泉や湯布院に並んで、九州で人気の温泉だという。私は平山温泉ではなく、市内のビジネスホテルに宿泊したが、そこの泉質もヌルヌルとしたアルカリ泉で、所謂「美肌の湯」である。平山は官軍の南関本営と山鹿の中間地点に当たり、二月二十五日から三月二十二日まで官軍の陣営が置かれた。それが湯山の牛島順蔵宅であったといわれる。これも平山温泉街の一角であるが、K氏、E氏の案内なくして行き着けなかったであろう。
(薩軍仮繃帯所跡)
西南の役 薩軍仮繃帯所跡
笹原の路傍に薩軍仮繃帯所跡の木柱が建てられている。かなり文字は読みづらい。
この地域でも官薩両軍の攻防戦が繰り広げられた。今田房男氏の祖母テキさん(明治十年当時十三歳)の話によれば、この付近一帯は薩軍の宿泊所となり、今田家は繃帯所となった。
(平山城址)

平山城址
平山地区での戦闘は、第三次、第四次の戦いがもっとも激しく、官軍の戦死者は三十二名、家屋の毀損三十一戸を数えた。岩村の本隊に対士、平山には支隊が置かれ、要所には陣地が築かれた。平山城跡はその一つである。写真は城址に至る入口であるが、城址にはここから十分ほど登る必要がある。三月十二日の第三次戦は、早朝四時半より始まり、平山の官軍の一面隊は小群村より城村に進撃し、薩軍の陣を奪ったが、側面から薩軍の攻撃を受け、夜になって平山に戻った。
(堂ヶ原口)
旧街道(至十町)堂が原口
史蹟 西南の役台場跡
堂ヶ原口は、もはや山鹿市の北端に近い。木柱は根元から折れてしまっているが、記述によればここを通る道は、十町(現・和水町)へ通じる旧街道のようである。
ここから東に一・五キロメートルの山の中に薩軍の台場があったそうである。
E氏が「多分、あちらの山の中に台場があった」と語る、そちらの方面の風景を参考として掲載しておく。

西南の役平山本営跡
K氏によれば平山温泉は、黒川温泉や湯布院に並んで、九州で人気の温泉だという。私は平山温泉ではなく、市内のビジネスホテルに宿泊したが、そこの泉質もヌルヌルとしたアルカリ泉で、所謂「美肌の湯」である。平山は官軍の南関本営と山鹿の中間地点に当たり、二月二十五日から三月二十二日まで官軍の陣営が置かれた。それが湯山の牛島順蔵宅であったといわれる。これも平山温泉街の一角であるが、K氏、E氏の案内なくして行き着けなかったであろう。
(薩軍仮繃帯所跡)

西南の役 薩軍仮繃帯所跡
笹原の路傍に薩軍仮繃帯所跡の木柱が建てられている。かなり文字は読みづらい。
この地域でも官薩両軍の攻防戦が繰り広げられた。今田房男氏の祖母テキさん(明治十年当時十三歳)の話によれば、この付近一帯は薩軍の宿泊所となり、今田家は繃帯所となった。
(平山城址)

平山城址
平山地区での戦闘は、第三次、第四次の戦いがもっとも激しく、官軍の戦死者は三十二名、家屋の毀損三十一戸を数えた。岩村の本隊に対士、平山には支隊が置かれ、要所には陣地が築かれた。平山城跡はその一つである。写真は城址に至る入口であるが、城址にはここから十分ほど登る必要がある。三月十二日の第三次戦は、早朝四時半より始まり、平山の官軍の一面隊は小群村より城村に進撃し、薩軍の陣を奪ったが、側面から薩軍の攻撃を受け、夜になって平山に戻った。
(堂ヶ原口)

旧街道(至十町)堂が原口
史蹟 西南の役台場跡
堂ヶ原口は、もはや山鹿市の北端に近い。木柱は根元から折れてしまっているが、記述によればここを通る道は、十町(現・和水町)へ通じる旧街道のようである。
ここから東に一・五キロメートルの山の中に薩軍の台場があったそうである。

E氏が「多分、あちらの山の中に台場があった」と語る、そちらの方面の風景を参考として掲載しておく。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます