JX金属製錬 佐賀関製錬所
佐賀関製錬所は創業大正五年(1916)。高さ凡そ二百メートルの煙突が町のシンボルとなっている。粗銅生産能力四十五万トンは、我が国最大である。今では佐賀関は製錬所の企業城下町であるが、江戸時代を通じて鶴崎と同様、熊本藩の飛び地であった。
今も四国三崎と結ぶ九四フェリーの発着地となっている。かつて四国に住んでいた頃は、このフェリーを使って九州上陸を計画したが、遂に実現することはできないまま今日まで来てしまった。
(徳応寺)
徳応寺
徳応寺は、元治元年(1864)に、勝海舟と坂本龍馬一行が来関した折に止宿したといわれる。往きは二月十五日、還りは四月十日のことである。門前にそのことを記した「佐賀関まちづくり協議会 佐賀関ボランティアガイド」の建てた説明板が設置されている。西南戦争では、政府軍の警察隊がこの寺に駐留した。
海舟・龍馬止宿の寺
(佐賀関・神崎地域包括支援センター)
嵯峨屋
徳応寺前は古い商店街となっている。徳応寺に隣接する佐賀関・神崎地域包括支援センター前には「嵯峨屋」という屋号が掲示されている。海舟・龍馬一行が佐賀関に止宿した際に、一行が分宿した屋号である。
(まちのえき よらんせえ~)
讃岐屋
嵯峨屋の向かいには讃岐屋という屋号の店があった。讃岐屋では、海舟・龍馬一行を接待し、亭主役として活躍した。
(地蔵寺)
地蔵寺
地蔵寺には、西南戦争時の官軍兵士の墓を探して歩いたが発見に至らず。
(佐賀関製錬所購買会)
元治元年(1864)二月十五日、勝海舟に連れられた坂本龍馬らは、神戸から第二長崎丸に乗って佐賀関に降り立った。彼らの目的は、幕府の命を受け、英・仏・蘭・米の四か国連合艦隊が計画している長州攻撃を中止させる交渉を長崎で行うためであった。
上陸後、徳応寺に宿泊し、鶴崎、野津原、久住と宿泊を重ね、長崎へ向かった。帰りも同じ道をたどって九州を横断した。
当時の佐賀関の地図と現代の地図を重ね合わせ、この場所(佐賀関製錬所購買会駐車場)が上陸地と特定された。
文久四年(一八六四)年二月十五日
龍馬上陸の地
龍馬街道 出立の地
峠越えをした海舟・龍馬
元治元年(1864)二月十六日の朝、徳応寺を出た海舟一行は、有屋峠から虎御前峠、篠生峠を越え、鶴崎に向かった。
現在の海岸沿いの道(国道197号線)が通じたのは明治になってからで、それまでは険しい山越えをしていた。当時、大名行列も駕籠で通った道で、Uターンできるように幅三メートルの道が今もそのまま残されている。現在、この峠越えの道は、人が足を踏み入れていないためにかなり荒れているそうである。今回は時間の関係で、残念ながら峠越えの道はパスした。
海舟一行は、峠越えをして一日で鶴崎に達している。現代人から見れば、相当な健脚である。
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