史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

大分 Ⅱ

2022年07月16日 | 大分県

(悟真寺)

 

悟真寺

 

忠誠軒仁空元攘居士(若杉弘之進の墓)

 

 悟真寺で若杉弘之進の墓を探す。さして広くない墓地だが、若杉姓の墓石が四~五つも並んでいる。目当ての若杉弘之進の墓石は、入口に近い若杉家の墓のすぐ裏にある自然石のものである。墓石に刻まれた三名のうち中央が弘之進の叔父町田元耕のもの、左が弘之進のものである。

 若杉弘之進は、天保十四年(1843)の生まれ。幼時句読を府内藩隅某にうけ、十五歳のとき広瀬淡窓に入門した。嘉永六年(1853)三月、和泉国堺の叔父元耕に医を学び嗣子となった。元耕没後長門の青木周弼に就いて業を修め、安政二年(1855)、長崎、翌年江戸に出て、大城春斎に師事した。元耕は、志士のために財を失っていた。弘之進は、義弟に家を継がせて生家に復し、堺で医業を開いたが、医を次にして志士と交わり、勤王を主張し、文久三年(1863)、長州に行った。元治元年(1864)七月七日、同志と出発し入京ののちは家老福原越後の隊に属したが、薩摩の兵と戦い戦死した。

 

(鶴崎小学校)

 

鶴崎小学校

 

勝海舟坂本龍馬宿泊の地

 

 鶴崎小学校と県立大分鶴崎高校の間の小径は、「海舟・龍馬思索の道」と名付けられている。元治元年(1864)二人がこの場所を通って長崎へ向かったことを記念したものである。

 

鶴崎城跡 熊本藩鶴崎御茶屋跡

 

 鶴崎小学校の正門内に鶴崎城跡と熊本藩鶴崎御茶屋跡を示す石碑が置かれている。

 鶴崎は、加藤清正が肥後熊本に封じられた時から肥後藩の所領であった。肥後から瀬戸内海に向けた玄関口として重要な港町とされた。その中心部に藩主の宿泊所として鶴崎御茶屋が建設された。鶴崎御茶屋は、所領とともに加藤氏から細川氏に受け継がれた。

 

伊能忠敬測量記念碑

 

 文化七年(1810)、伊能忠敬は、鶴崎を測量している。そのことを記念した石碑が、鶴崎小学校内に建てられている。

 

(南鶴崎三丁目)

 

脇蘭室旧宅跡

 

 南鶴崎三丁目の大分銀行鶴崎支店の東側の民家の前に脇蘭室旧宅跡の石碑がある。

 脇蘭室は熊本藩から藩校時習館で訓導として招かれたが、そこを短期間で辞し、鶴崎に塾を開いた。

 

(大分県信用組合鶴崎支店)

 大分県信用組合鶴崎支店の建物北東角に、熊本藩鶴崎御蔵跡の碑が建っている。肥後熊本藩鶴崎の御米蔵があった場所である。

 

熊本藩御蔵跡

 

(グループホーム菜の花)

 

伊能忠敬宿泊地

 

 東鶴崎のグループホーム菜の花は、和泉屋八右衛門宅跡である。伊能忠敬一行は、文化七年(1810)二月十三日に府内より入ってここに宿泊し、翌十四日は周囲の村々を測量。翌十五日は雨天のため足止めとなり、十六日の朝、臼杵領里村(大分市坂ノ市里)へ出発した。このとき伊能忠敬は六十六歳であった。

 

(鶴崎橋西詰)

 

熊本藩 鶴崎作事所跡 有終館跡

 

 有終館は明治二年(1869)、毛利空桑、河上彦斎によって洋式兵学校として鶴崎橋西側に作られた。海兵二百人、 陸兵百人が教練を受けた。参勤交代に使われた船の建造、修理などを行った鶴崎作事所も此処にあった。

 

(教尊寺)

 

教尊寺

 

伊能忠敬は、文化七年(1810)二月十六日、鶴崎村からこの地に至り、教尊寺の書院で宿泊した。書院の建屋は当時のままである。寺の周辺を探してみたが、伊能忠敬に関する説明板などは見当たらない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 別府 Ⅱ | トップ | 大分 佐賀関 »

コメントを投稿

大分県」カテゴリの最新記事