(高鼻公園)
二日目は早朝に日田を出発し、玖珠、九重、別府、大分を経て午後二時前に竹田市内に入った。長年憧れていた竹田にようやくたどり着いた。期待に胸が高まる。
竹田は人口二万人程度の小さな街であるが、かつては難攻不落を謳われた岡城を中心とした城下町であり、中川氏四万石の領地であった。
明治十年(1877)の西南戦争では、薩軍と官軍の激しい戦闘の舞台となった。今でも市内を中心に戦跡が残されている。時間の許す限り、西南戦争関係の史跡を訪ねて歩くこととしたい。
最初の訪問地は、市内を通過して熊本県寄りにある高鼻(たかばな)公園である。
高鼻公園
馬背野峠に設けられた高鼻公園は、西南戦争の戦跡の一つである。
明治十年(1877)五月、竹田を占拠した薩摩軍を討伐するため、熊本鎮台は二個大隊を派遣した。恵良原に本陣を布いた官軍は、馬背野峠に拠り、十九日、薩摩軍との間に終日、激しい銃撃戦を繰り広げた。
両軍が大分県下で最初に砲火を交わしたのがこの戦いで、その後約四か月にわたり県下各地で激しい戦闘が行われた。
史跡 馬瀬野峠(高鼻公園)
(中川神社)
中川神社
中川神社は、岡藩初代藩主中川清秀、二代秀政、三代久清を合祀する。創始当時は城内にあったが、明治五年(1872)に神号を許可され、明治六年(1873)、岡城を解体する際に城内にあった清秀の廟所荘嶽社を常盤山に移し、中川神社と称するようになった。
弾痕?
西南戦争では激戦地となり、社殿に弾痕らしきものが残されている。
(鴻巣台公園)
鴻巣台公園
鴻巣台 西南の役激戦の地
竹田市総合運動公園の南側一体を茶屋の辻と呼ぶが、やはり明治十年(1877)五月、この周辺が激戦地となった。鴻巣台公園には、激戦地を示す石碑や説明板が建てられているほか、推定樹齢二百五十年というヤマザクラが建っている。五月二十六日にはこの樹をはさんで両軍が激しく銃撃戦を交わした。
西南の役の生証人 鴻巣台の桜
(立哨濠)
鴻巣台公園の前の細い道を西に進むと、立哨濠がある。薩軍の夜襲を警戒して、官軍の番兵が身を隠した跡で、二つの濠を確認できる。人ひとりが入れるくらいの大きさであるが、半ば土砂で埋もれているのが残念である。
立哨濠
立哨濠
立哨濠
(蛇塚)
蛇塚
立哨濠の前の小径をさらに進むと、蛇塚と呼ばれる共同墓地がある。
鬼が城方面から迫る官軍に対し、薩軍は墓石を盾に戦ったとされる。今も墓石に弾痕を確認することができ、当時の戦闘の凄まじさを偲ぶことができる。
弾痕の残る墓
弾痕の残る墓
(やすらぎと史の史の館)
西南戦争犠牲者供養塔
広瀬武夫誕生の地から鴻巣台公園方面に進むと、右手に「やすらぎと史の史の館」という看板を掲げた家がある。その南側に西南戦争犠牲者供養塔が建てられている。そばにある木柱によれば「西南戦争研究会」「茶屋の辻歴史文化研究会」「文化財を応援する会」という三つに団体がこの供養塔建立に関わったらしい。どういう団体なのか詳細は分からないが、恐らく地元の郷土史を研究する集まりだろう。立哨濠や蛇塚にも「茶屋の辻自治会」による説明が付されていたが、来訪者にはとても有り難い。
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