(森合峠)
仙臺藩本営地
戊辰戦争三本松戦跡
(梁川播磨戦死の地)
同盟軍の主力であった仙台藩は、慶應四年(1868)五月末、兵五百を交通の要衝である金山に派遣した。同年七月十一日、桂太郎を将とする新政府軍は、金山北方の森合峠から進攻し、薩摩藩軍は役内から有屋峠を経由して金山を攻めた。両面から攻撃を受けた仙台藩は混乱に陥り、同日夕刻、隊長梁川播磨は三本松付近で壮烈な戦死を遂げた。軍監五十嵐岱助以下、仙台藩兵の戦死者は三十三名を数えた。
梁川播磨歌碑
梁川播磨戦死の地には、梁川播磨頼親の歌碑が建てられている。梁川播磨は武勇とともに歌道のたしなみもあったという。享年三十七。
積む雪に 通路たへて おのづから
うき世をへだつ 冬の山里
頼親
仙台藩士戊辰戦没碑
仙臺藩士戦死之墓
仙臺藩士早坂弥七郎之墓
早坂弥七郎は、仙台藩梁川播磨大隊の使番であった。慶應四年(1868)七月十一日、金山にて戦死。
仙臺藩本営地
戊辰戦争三本松戦跡
(梁川播磨戦死の地)
同盟軍の主力であった仙台藩は、慶應四年(1868)五月末、兵五百を交通の要衝である金山に派遣した。同年七月十一日、桂太郎を将とする新政府軍は、金山北方の森合峠から進攻し、薩摩藩軍は役内から有屋峠を経由して金山を攻めた。両面から攻撃を受けた仙台藩は混乱に陥り、同日夕刻、隊長梁川播磨は三本松付近で壮烈な戦死を遂げた。軍監五十嵐岱助以下、仙台藩兵の戦死者は三十三名を数えた。
梁川播磨歌碑
梁川播磨戦死の地には、梁川播磨頼親の歌碑が建てられている。梁川播磨は武勇とともに歌道のたしなみもあったという。享年三十七。
積む雪に 通路たへて おのづから
うき世をへだつ 冬の山里
頼親
仙台藩士戊辰戦没碑
仙臺藩士戦死之墓
仙臺藩士早坂弥七郎之墓
早坂弥七郎は、仙台藩梁川播磨大隊の使番であった。慶應四年(1868)七月十一日、金山にて戦死。
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