史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

佐賀城西側 Ⅰ

2015年08月01日 | 佐賀県
(龍泰禅寺)
 明治七年(1874)の佐賀の乱で、佐賀城二の丸、三の丸が炎上したが、本丸の玄関、式台、外御書院、御居間などは焼失を免れた。のちに玄関、式台は解体され、龍泰禅寺の本図堂に移建された。なお、御居間は、大木喬任生誕地の公民館の建物として利用されている。

 龍泰禅寺山門東には、大隈重信の墓がある。大隈重信の墓は、東京護国寺と龍泰寺の二か所にある。


龍泰禅寺


純誠院殿義海全功大居士
大隈重信墓所


(妙覚寺)
 妙覚寺に本島藤大夫の墓碑があるはずだが、墓地まで踏み入れる時間がなかった。次回以降の宿題である。
 本島藤大夫は、文化七年(1810)生まれで、長く鍋島直正の近くに仕えた。一貫して佐賀藩の軍備面を担当し、御台場増築方、公儀石火矢鋳立方、蒸気船製造役局、海軍取調方などの役職を歴任した。明治二十二年(1889)、没。


妙覚寺

(宝琳院)
明治七年(1874)、佐賀の乱の際、島義勇は宝琳院に憂国党本営を置いた。


宝琳院

(多布施の反射炉跡)
 嘉永六年(1853)、ペリーの来航に危機感を覚えた幕府は、江戸湾防備のために品川沖に台場を新設し、そこに据える鉄製大砲を佐賀藩に依頼した。佐賀藩では多布施に公儀用の反射炉を増設し、安政三年(1856)までに鉄製二十四ポンド砲二十五門、三十六ポンド砲二十五門を納め、さらに百五十ポンド砲三門を幕府に献上した。また、文久・慶応年間には当時世界でも最高水準の技術を要する鋳鋼製アームストロング砲の製造に成功し、佐賀藩が当時の我が国の科学技術の最高水準にあったことを示している。


佐賀藩多布施公儀反射炉跡

 水車場では、水車を利用して鋳鉄に砲道を開ける錐鑚機が稼働していた。これに用いられた多布施川は、佐賀城外堀と城下住民への給水を目的とした用水で、成富兵庫茂安(1560~1634)が心魂を注いで築造した近代河川の一つである。


公儀石火矢鋳立所跡


佐賀駅前の反射炉模型

 佐賀駅北口には、多布施の反射炉を模したモニュメントが置かれている。

(護国神社)


護国神社


戊辰戦争記念碑

 佐賀の護国神社は、明治三年(1870)、旧佐賀藩主鍋島直大が、戊辰戦争で戦死した藩士七十八柱を祀ったのが始まりで、その後佐賀の乱の戦死者も合祀した。明治八年(1875)、招魂社となり、昭和十四年(1939)、佐賀県護国神社と改められた。

(本行寺)


本行寺


明治十有四年五月建 江藤新平君墓

 本行寺には江藤新平の墓がある。墓碑は副島種臣の書。同墓地には、新平の妻や子孫で、政治家となった江藤夏雄らの墓もある。
 江藤新平の辞世が残されている。

 ますらをの涙を袖にしぼりつつ
 迷う心はただ君がため

 明治二十二年(1889)、刑名を除かれ、大正五年(1916)五月、正四位を追贈された。


(専修寺)
 専修寺に佐賀藩士中村奇輔の墓がある。中村奇輔は、工芸技術者として、長崎に来航したロシアの軍艦に乗船して視察し、また佐賀では当時の理化機械等あらゆる工業の試験研究所であった藩の精錬所で新しい技術者を養成した。一方、電信機の製作にも成功したが、のち実験中に火傷を負い、廃人となった。


専修寺


中村奇輔墓

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