(神奈川銀行平塚支店)
平塚宿本陣旧蹟碑
平塚宿本陣は、代々加藤七郎兵衛家が担っていた。現在、神奈川銀行平塚支店のある場所に南面して本陣の建物が建てられていたという。記録によれば、徳川家茂は文久三年(1863)二月と慶応元年(1865)五月の二回、平塚本陣にて休憩をとっている。また、明治天皇は東京行幸と遷都の際、当地に小休している。
平塚宿脇本陣跡
本陣跡から東に高札場跡、さらに脇本陣跡、見附跡があった。現在、それぞれ石碑が建てられている。
平塚宿高札場跡
平塚宿の江戸見附跡
平塚宿の東西には、それぞれ江戸見附と京方見附が設置されていた。見附というのは、宿の出入りを監視するための施設で、同時に見附から正式に宿内であることを示すものであった。
(平塚商業高校)
成器塾跡
平塚商業高校の東南角に成器塾跡碑がある。
成器塾は、芳野金陵の高弟、宮崎拡堂が嘉永三年(1850)頃、相模国大住郡中原村に開いたもので、一時江戸御徒町に移ったが、文久二年(1862)、平塚に新築した。門下には大磯の伊東希元や上平塚の今井元啓などがいる。宮崎拡堂は、明治二年(1869)、五十一歳で死去。
(扇松)
扇松
JR東海道線の北側には、旧東海道や国道が走り、賑やかな街が広がるが、南側は打って変わって閑静な住宅街である。平塚駅から海岸に向かって「扇松通り」と名付けられた道が伸びている。通りに沿って十五分ほど歩くと、道路を覆うように大きな黒松が植えられている。この黒松は扇松と呼ばれている。
後藤象二郎は、この辺りに二扇庵と称する別荘を構えていた。この頃、後藤象二郎が詠んだ戯れ歌である。
わが庵は 扇の松に ほど近く
富士の高嶺を 軒端にぞ見る
平塚宿本陣旧蹟碑
平塚宿本陣は、代々加藤七郎兵衛家が担っていた。現在、神奈川銀行平塚支店のある場所に南面して本陣の建物が建てられていたという。記録によれば、徳川家茂は文久三年(1863)二月と慶応元年(1865)五月の二回、平塚本陣にて休憩をとっている。また、明治天皇は東京行幸と遷都の際、当地に小休している。
平塚宿脇本陣跡
本陣跡から東に高札場跡、さらに脇本陣跡、見附跡があった。現在、それぞれ石碑が建てられている。
平塚宿高札場跡
平塚宿の江戸見附跡
平塚宿の東西には、それぞれ江戸見附と京方見附が設置されていた。見附というのは、宿の出入りを監視するための施設で、同時に見附から正式に宿内であることを示すものであった。
(平塚商業高校)
成器塾跡
平塚商業高校の東南角に成器塾跡碑がある。
成器塾は、芳野金陵の高弟、宮崎拡堂が嘉永三年(1850)頃、相模国大住郡中原村に開いたもので、一時江戸御徒町に移ったが、文久二年(1862)、平塚に新築した。門下には大磯の伊東希元や上平塚の今井元啓などがいる。宮崎拡堂は、明治二年(1869)、五十一歳で死去。
(扇松)
扇松
JR東海道線の北側には、旧東海道や国道が走り、賑やかな街が広がるが、南側は打って変わって閑静な住宅街である。平塚駅から海岸に向かって「扇松通り」と名付けられた道が伸びている。通りに沿って十五分ほど歩くと、道路を覆うように大きな黒松が植えられている。この黒松は扇松と呼ばれている。
後藤象二郎は、この辺りに二扇庵と称する別荘を構えていた。この頃、後藤象二郎が詠んだ戯れ歌である。
わが庵は 扇の松に ほど近く
富士の高嶺を 軒端にぞ見る
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