(箱崎公園)
松陰先生像
昭和十二年(1937)末、箱崎尋常小学校の当時六年生であった岩井光子さんが病死した。光子さんは、吉田松陰の生き方に深い感銘を受けており、亡くなる前に自分の貯金で学校に吉田松陰の銅像を建てるよう両親に遺言を残した。両親は生活が苦しい中、この遺言を実現し、昭和十三年(1938)三月、盛大に除幕式が開かれた。当時この話は美談として東京日日新聞に掲載され、時の文部大臣や東京市関係者が列席した。台座の「松陰先生」の文字は、この話に感動した海軍大将高橋三吉の揮毫によるもの。戦前の松陰は、「憂国の忠臣」として神格化されていた。この銅像も時代の空気を今に伝えるものである。平成二十二年(2010)、箱崎公園(日本橋箱崎町18)に移設された。
このところ、週末ごとに大雪となり、外出できない鬱憤がたまっていた。実は、その一週間前、雪かきで持病のギックリ腰を再発してしまい半日休みをもらって通院したが、ようやく回復してきたところである。晴天につられるようにして水天宮や茗荷谷を歩いた。特に無理をしたという意識はなかったのだが、その夜から腰痛が悪化し、翌日には起き上がれないほどになってしまった。嫁さんからは「無理をして出歩くから」と叱られることになってしまった。当面自粛します。
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松陰先生像
昭和十二年(1937)末、箱崎尋常小学校の当時六年生であった岩井光子さんが病死した。光子さんは、吉田松陰の生き方に深い感銘を受けており、亡くなる前に自分の貯金で学校に吉田松陰の銅像を建てるよう両親に遺言を残した。両親は生活が苦しい中、この遺言を実現し、昭和十三年(1938)三月、盛大に除幕式が開かれた。当時この話は美談として東京日日新聞に掲載され、時の文部大臣や東京市関係者が列席した。台座の「松陰先生」の文字は、この話に感動した海軍大将高橋三吉の揮毫によるもの。戦前の松陰は、「憂国の忠臣」として神格化されていた。この銅像も時代の空気を今に伝えるものである。平成二十二年(2010)、箱崎公園(日本橋箱崎町18)に移設された。
このところ、週末ごとに大雪となり、外出できない鬱憤がたまっていた。実は、その一週間前、雪かきで持病のギックリ腰を再発してしまい半日休みをもらって通院したが、ようやく回復してきたところである。晴天につられるようにして水天宮や茗荷谷を歩いた。特に無理をしたという意識はなかったのだが、その夜から腰痛が悪化し、翌日には起き上がれないほどになってしまった。嫁さんからは「無理をして出歩くから」と叱られることになってしまった。当面自粛します。
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